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第35話

「ただいま。」 で、合っているはずなのだが。実家の玄関を開けた瞬間ほんのわずかに違和感を感じた。 一ヶ月前まで毎日の時間を過ごしていたこの家も、今ではよその家に上がるような感覚を覚えるくらい彩華(さいか)での生活に馴染んでしまっていたらしい。 もちろん、ここはここで愛着もあるわけだが。 「まぁまぁ、おかえりなさい。本当に帰ってこられたんですねぇ。」 奇妙な感覚にとらわれながら靴紐を弛めていたら、既に懐かしさすら感じる穏やかな声が聞こえてきた。 いつものように割烹着を身につけてにこにこと温和な笑顔で出迎えてくれた存在には、やっぱりほっとする。 「ただいま。ハルさん、腰の調子どう?」 ハルさんは俺が物心ついた時から住み込みで働いてくれていたお手伝いさんだ。 六十を過ぎて腰を痛めてからは、既に成人しているお子さん夫婦と同居し、定期的に我が家に通ってくれている。 俺にとってお袋の味といえば、ハルさんが作ってくれる肉じゃがとカレイの煮付けだ。 「やっぱり歳はとるものじゃないですねぇ。最近身体が言うことを聞いてくれなくて困りますよ。でも、今日は久しぶりに皆さんお揃いなんですから、お夕飯は頑張らなきゃ。」 割烹着の袖を捲りあげるハルさんに程々にと釘をさしてから、お荷物をと差し出された手を丁重に断って玄関ホールから二階の自室へと階段を上る。 ここに来るまでに色々ありすぎて正直このままベッドに沈みこみたい気持ちもあったが、とりあえず自室に入るなりベッドには肩にかけていた鞄を投げ捨てて、俺は部屋の中央に置かれたグランドピアノのカバーを捲った。 第二音楽室をほぼ私物化させてもらってはいるが、やっぱりこのピアノとは音質が違う。慣れ親しんだ鍵盤に指を滑らせれば、硬質な音楽室のピアノとは違う柔らかい音が響いた。どうやら俺のいない間にも調律とメンテナンスを頼んでもらっていたらしい。耳に馴染む音に心地良さを感じながら数曲弾いたところで俺は我に返った。 そうだ、ピアノを弾きに帰ってきた訳じゃ無い。ようやく本来の目的を思い出してベッドに投げ捨てていた鞄から楽譜を入れたファイルを取り出す。 まだまだ弾いていたいところだったが、そろそろハルさんが夕食の時間だと呼びに来るであろう時刻でもあったので、大人しくピアノにカバーをかけ直し、俺はリビングへと階段を降りた。 「あ、やっと降りてきた。帰ってくるなり自室に籠るなんて泣いちゃうわ。」 「ああ、ごめん。つい。」 リビングに入るなりわざとらしく泣き真似をしてきた母親に対して俺は適当に受け流してテーブルを挟んで向かいのソファーに座る。 「もう、色さんったら冷たいんだから。」 むすっと頬を膨らませて拗ねるこの人がその界隈で知らぬ人間はいない元オペラ歌手だと誰が思うだろう。 俺にとってはちょっと扱いがめんどくさい普通の母親なのだが、学生時代から国内外のコンクールを総なめにし、コロラトゥーラソプラノと評されたこの人は、歌劇団に入り幾度も主役を歌い上げ、ソロ公演も行っていたにもかかわらずわずか二年で現役を引退し周囲を騒がせたあらゆる意味で伝説の人らしい。 曰く、オペラ歌手になる夢はもう叶ったので、次はお嫁さんになる夢と素敵なお母さんになる夢を叶えたくなったと十歳年上の親父とあっという間に結婚してしまった何とも破天荒な人だ。 そうして俺が事務所に所属して音楽活動をはじめれば、独り立ちしたと見なされ、母親の時間は終わったと今では親父の公演について回ってみたり、大学の客員教授として時々歌声を披露したりと人生を謳歌している。 今回も親父のニューヨーク公演について行き、向こうの家で夫婦の時間を過ごしていたらしい。 「親父は?」 「誠一(せいいち)さんなら時差ボケでまだ寝てるわよ。」 紅茶を勧められたが夕食前だからと断れば、暇を持て余した母親はハルさんを手伝ってくるとキッチンへ消えていった。 最近はハルさんの料理を習得しようと教えを乞うているらしい。 俺も手伝いたい所なのだが、手伝いを申し出ればきまってハルさんから大事な指に何かあっては困ると断られるので、大人しくリビングで時間を潰すことにした。 持って降りてきていたファイルから手書きの楽譜を取り出し、目を通す。 オケの楽譜を読むことはあっても書いたことはほとんどない。いつもはどうせ自分しか見ないのだからと適当に書いていたものを、今回は大勢と共有できるよう書かなければならず、ほとんど手探りの状態だった。 悔しいけど的確なアドバイスをできる人間が最も身近にいるのだから、より良い音を作るには頭を下げるより他ない。そう思って書き上げていた全ての楽譜を持ち帰っていた。 「……これ、速度は、」 「ぬぁっ、」 いきなり背後から声をかけられて思いっきりソファーから飛びのいた。気配も音もなく俺の背後に忍び寄っていた存在が、俺の手からそっと楽譜を抜き取る。 一応おはようと声はかけたが、返ってきたのは辛そうな唸り声だった。 多分まだ半分寝ているんだろう。パジャマ姿でぼさぼさの髪、焦点の合わない半開きの目が、それでもぼんやりと五線を見つめながら俺の隣に腰を下ろした。 寝起きの悪さは相変わらずらしい。 「……スタジオか?」 「いや、小ホール借りようと思ってる。」 「……だったら、もう少し速度を落として弦楽器を歌わせろ。ホールに響く時間を計算して書け。」 寝ぼけつつも的確に指摘してくるこの人は、やはり腐っても寝ぼけても世界にその名を響かせる指揮者だ。 段々と焦点の合ってきた親父はぱらぱらと流し読みのように素早く楽譜に目を通しながら、時折的確に問題点を指摘してくる。 この速さでこれをやってのけるなんて、やっぱりこの人は化け物だ。 「ここはもう少しバランスを考えろ。金管の音に消されるぞ。」 「あー、なるほど。やっぱり難しいな。」 全体の音を意識しているつもりでも、俺にはまだまだ見えていない。現実を突きつけられて思わず深いため息が出てしまう。 「初めてでここまで書ければ上出来だ。それに、」 ふ、と漏れ聞こえた吐息に楽譜から隣へと視線を移せば、口角にほんの僅かに笑みを浮かべた珍しい横顔を見た。 「……いい曲だ。」 いつも無表情で滅多に感情を表に出さないあの朴念仁が、笑った、のか? 「あ、りがとう……」 あまりに珍しすぎる光景に、一瞬返答に詰まる。 なんともいたたまれない気持ちに陥って、俺は照れ隠しに髪をかき乱した。 「これ、楽団はどことやるつもりだ?」 「いや、まだ決めてなくて。それでその、」 「……うちとやりたいって話か?」 ぎ、と急に鋭さを増した眼光に、俺は慌てて片手を降って否定する。 「まさか。H響とやりたいなんて今の俺の実力じゃ無理だってわかってる。そこまで自惚れてねぇよ。」 「……そう、なのか。」 現在親父が首席指揮者兼音楽監督を務めるH響は日本最高峰と言われるオーケストラの一つだ。オケとの共演なんてやったことも無いど素人のオファーを受けてくれるなんてもちろん思っていない。そもそも恐れ多すぎてそんな事言い出せるわけが無い。 俺は分はわきまえてると全力で否定すれば目の前の眼光はふ、と鋭さを消した。 「どこか30人前後の室内オケで良さそうなとこ紹介して貰えたらと思っただけだよ。」 「そうか……。」 何だろう。心なしか空気が重くなった気が。 「………クロ。黒澤(くろさわ)は覚えてるか?」 息苦しい空気の中でポツリと漏らされた声に、俺の中で一人の人物が思い浮かんだ。 親父が渾名で呼ぶくらい親しい人物。 「くろ、さん。H響のコンマスだっけ?」 二人して酔いつぶれてはよく楽団の方向性について議論していたその人の傍らには、いつもバイオリンケースが置かれていて、時々弾いてもらった記憶もある。初めてストラディバリウスの生音を俺に聴かせてくれた人だ。 「元、コンサートマスターだ。あいつ、一昨年に早期退職だとか言い出して定年間近で退団してな。今は趣味だとかいって有志で楽団を組んで小学校や市民ホールを回ってるんだ。うちの元楽団員もかなり参加してる。」 実力は折り紙付き。しかも親父の友人とくればこれ以上の人はいない。 しかし、黒…黒澤……この名前頻繁にどこかで聞いたような。 「お前も息子さんに世話になってるんだろう?だったら今更遠慮する間柄でもないだろうし都合いいだろう。」 親父の言葉に一瞬で脳裏に派手な柄のシャツが浮かぶ。 「あの人、黒澤さんの親父さんなのか!?」 そう言われればどことなく目元が。それに黒澤さんの音楽の造詣の深さと耳の良さに納得がいった。 にしても、世間って狭いな。 「親子で仕事って、うーん……気まずいだろうけど、でもやっぱりお願いしたい。連絡先、教えてもらえるか?」 親子といえど仕事の話だ。居住まいを正してお願いしますと頭を下げれば、親父は眉間に皺を寄せ何とも言いがたい複雑な表情を浮かべていた。 「俺から連絡してみよう。……こういう事でもないと酒に誘うきっかけがなくてな。」 そのままソファーから立ち上がり、電話してくると一言残してリビングを出ていった。 曲もある程度目処はついたし、楽団も見つかったし、これでなんとかなりそうだ。 俺はふぅ、と大きく息を吐いてソファーに沈みこむ。 ようやく緊張が解けたというか、ほっとしたというか。とにかく完全に気の抜けた俺は、去り際に親父がこちらを振り返ったことになど全く気づいていなかった。 「…………親子で仕事は気まずいのか。」 そんな沈痛な呟きは、キッチンから聞こえた、ご飯ですよーのソプラノにかき消されて、俺の耳に届くことはなかった。

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