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第36話

氷の感触を確かめるようにゆっくりと円を描くように中央を滑る男の姿。 タブレットの画面越しではその表情まで窺い知ることは出来ないが、動きが少しぎこちない気がする。 今は肩まである長い髪も二年前はまだ短く、どことなく幼さを感じさせた。 一昨年行われた世界選手権。結果はわかっているのに、画面越しに伝わる緊張感に俺は思わず息を飲んだ。 自らの肩を抱くように美鳥が静止すれば、場の空気がピンと張りつめたのがわかる。一呼吸おいて流れ始めたピアノの音に合わせて、美鳥は軽やかに滑りだした。 ドビュッシー作曲、亜麻色の髪の乙女。ただし、原曲ままではなく俺が編曲したものだ。クラシック音楽の編曲ばかりをまとめたアルバム『Old New』の中の一曲。原曲よりもアップテンポなリズムにのって美鳥は軽やかにジャンプをきめる。 『Amazing……』 解説者が呆然と呟き、それ以降黙り込んでしまった。専門家の目から見ても、それくらい美鳥の演技は別格らしい。 美鳥飛鳥の選手としての実力はこの目で見たので知ってはいる。けれど、実は俺にはどうしてこんなにも美鳥が注目を浴びているのかイマイチ理解できていなかった。 美鳥はあくまでもジュニアの大会しか出場経験のない選手だ。日本には俺ですら名前を知っている有名なシニア選手が沢山いるわけで。オリンピックの代表争いにジュニア選手の、しかも去年一年一線を離れていた美鳥の名前が上がる事が不思議でならなかった。 今日、実家に帰る道すがら車内でふと(すい)さんにそう漏らしたところ、熱のこもった長い長い解説の後、とにかくこの動画を見るようにとご丁寧にアドレスまで送ってくれたので、夕食後にいつもならピアノかヴァイオリンをひいているはずのところを自室のベッドに転がってこうしてタブレットを片手に一昨年の美鳥の姿を眺めている。 美鳥が連続でジャンプを成功させれば、会場からはわっ、と歓声が上がった。画面から解説者の興奮した声も聞こえてくる。 彗さん曰く、今のフィギュアスケートの採点方式では特にこのジャンプが重要視されているらしい。そんな中で美鳥は世界でも数人しか跳べない最高難度の四回転ジャンプが跳べるんだとか。 今観ているこの世界ジュニア選手権で、美鳥はその四回転ジャンプとともに圧倒的な表現力を見せつけ、他者を大きく引き離して優勝したらしい。 そもそもジャンプやスピンには柔軟性が必要で、身体の柔らかい未成熟な人間の方が有利なのだと力説されれば、美鳥が注目を浴びる理由は理解出来た。 けれど、美鳥の凄さはそこではないような気がする。詳しい事はよく分からないけど、ただ規定の技をこなしていくだけではない、指先の先まで意識を研ぎ澄まして全身で魅せる演技はただ滑っているだけでも惹きつけられる。 ジャンプを踏み切る勢いをつける、その手の動きにすら華を感じた。 氷上の美鳥は艶やかに、時に妖艶に、人を魅了する力を持っている人間だ。 「……綺麗、だよな。」 ぽつりと漏れたつぶやきに、自分自身で驚いてベッドの上に身を起こした。 何言ってんだ、俺は。 誰もいない部屋で、けれど妙に気恥ずかしくて辺りを見回してから、俺は自らの髪をわしゃわしゃと掻き乱す。 動画では美鳥が最後に高速でスピンをきめ、会場から拍手喝采を浴びていた。 トクトクと心拍数が上がっているのはきっと気のせいだ。そんな事あるわけない。 全ては錯覚だと言い聞かせて、とにかく落ち着くためタブレットの電源を落とそうと手を伸ばしたのだけれど、 ヴーッ ヴーッ ヴーッ ベッド脇に置いていたスマホが突如振動して、俺は落ち着くどころかピクリと肩を弾ませた。 スマホを手に着信画面を確認すれば、そこにある名前にやっぱり俺の心臓はドキリと跳ね上がる。 「……もしもし。」 なんとか平静を装って電話に出れば、電話口からは俺以上に様子のおかしい声が聞こえてきた。 『こ、ここここんばんは。』 「……こんばんは。美鳥、とりあえず落ち着け。」 毎日顔を合わせているのに何故そんなに緊張しているのか。吃る美鳥の声に、俺は逆に一瞬で冷静さを取り戻した。 『ご、ごめんなさい。その、き、緊張しちゃって。』 「まぁ、いいけど。何かあったのか?」 連絡先を交換するだけでも挙動不審だった美鳥が、まさかただ世間話をしたいがために電話してきたなんてことはありえない。 一瞬何か起きたのかと身構えたのだが、予想に反して美鳥の声はいつもより楽しげに弾んでいた。 『実はさっき三笠(みかさ)先輩から連絡がきて、衣装が完成したんだって。だから試着して滑ってみてほしいって言われて。』 「へぇ。もう出来たのか。」 『しかも、一着でいいって言ってたのにショートとフリーの二着作ってくれたって!』 なるほど。それは美鳥にとっては大事件だ。興奮気味な声に思わずふ、と笑ってしまった。 明日の早朝に晃と三笠先輩と畔倉アイスアリーナで試滑走すると話を聞いて、俺はベッドの上に置いていた目覚まし時計の時間を確認する。 「あー、起きられたら俺も行っていいか?」 『っ、も、もちろん!』 起きる自信はないのであまり期待するなと念押ししてから、俺達は詳しい時間等の話をした。 その頃にはもう美鳥の緊張も解けたらしく、寮の夕飯だったり、晃の部屋に初めて入っただのと他愛ない話を少しだけして、俺達は通話を切った。 スマホをベッド脇の充電器に戻して、電源を入れたままになっていたタブレットを手に取る。付けっぱなしになっていた動画を見れば、採点結果が表示され美鳥がコーチである立華(たちばな)に肩を抱かれ互いに顔を綻ばせていたところだった。 「……、」 画面に見たことの無い、こぼれるような笑顔が映る。 緊張に引きつった顔や泣き顔、無理に笑おうとする苦しそうな笑顔はよく見ているけど、こんな顔俺には中々見せてはくれないくせに。 何となくイラついて、タブレットの電源を切る。そのままベッド沈みこんだ。 はぁ、と吐き出した思いため息は誰にも聞かれることなく空気に溶けて消えていく。 「…………なにやってんだか、俺は。」 答えは当然返ってこなくて、しんとした部屋にまた深いため息が響いた。

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