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第38話

「美鳥君。どうしても納得できなくて。もう一度ちゃんと話をしよう?」 こっちには話す事なんてねぇよ。 そう言いたいのをぐっと耐えて、俺は背後にいる美鳥に視線を移す。 きちんと自分の意思を伝えたいと昨日美鳥は言っていた。だとすれば、俺達が勝手に動くわけにもいかない。悔しいが、立華と美鳥のことに関しては俺達は部外者なんだから。 ただし、何かあれば全力でぶん殴る。俺は手にしていたヴァイオリンケースをぐっ、と握りしめた。いざとなればこいつ……を置いて、グーで殴る。 「美鳥、」 「大丈夫、僕もちゃんと話したいから。」 美鳥が俺達の間を割って前に進みでる。ぺこりと会釈し、真っ直ぐに立華を見つめた。 俺達は後ろに下がって、事情を知らない三笠先輩や源さんに説明しつつ事の成り行きを黙って見守るしかない。 「大会には出てくれるんだよね?」 「はい。でも、どれだけ完璧に出来たとしても予選落ちします。そんな構成です。」 「な、駄目だ!そんな事して何になる!!」 立華の、叫びにも近い声がリンクに響く。 それでも美鳥はぎゅっと拳を握りしめ、怯まなかった。 「嫌です!」 立華に負けず劣らずの大きな声が響き渡る。 「僕は、僕の表現がしたい!得点も名声もいりません、人の心に響く演技がしたいんです!」 あの美鳥が、こんなにも声を荒らげて食い下がるなんて。 俺達だけじゃなく、立華にとっても初めての事だったんだろう。驚きに目を見開いた立華は言葉を失った。 「コーチには本当に申し訳ないと思っています。でも、これ以上自分に嘘はつきたくないんです。」 しん、と静まり返った中で、立華は眉間に皺を寄せゆっくり頭を振る。 「……自由に滑って、何になる。選手を引退してしまえば、滑る場所なんてないかもしれないじゃないか。」 「それは…」 「選手としてなら、君の演技を大勢の人が見てくれる。それは十分人の心に響く。」 美鳥の瞳がほんの一瞬揺らいだ。 立華は美鳥の両肩を掴み、少しだけ腰をかがめてその瞳を覗き込む。 まるで、親が子供に言い聞かせるみたいに。 「君は選手を続けなきゃ駄目だ。こんな所で、こんな事しててもなんの意味もないだろう?」 「そんな…」 美鳥の瞳に絶望を見た瞬間、プツリと俺の中で何かが切れた。 黙っているつもりだったが、もう限界だ。 「……ふざけんな。」 しん、としたリンクにぽつりと漏れた声は思いのほか響いた。 二人の視線が俺に向けられる。 あとはもう、身体が勝手に動いていた。 「ちょ、色っ、」 晃の制止も無視して、俺は立華から美鳥を引き離す。二人の間に入って、立華に思いっきりガンをくれてやった。 「なんなんだ、君は、」 体中の血液がグツグツと煮えたぎって、爆ぜる。 「こんな事?意味もない?っざけんな!美鳥はそれに全てをなげうってんだぞ!」 立華の言葉は競技者として正しいかもしれない。 でもこいつは、言ってはならないことを言った。美鳥の指導者として、許されない事をした。 「てめぇは見たのか!美鳥がやりたい事を、ちゃんと聞いて、その目で見たのか!!」 「それは、」 結局こいつは美鳥の話なんて聞こうともしなかった。自分の意見を押し付けるどころか、美鳥の決意を意味がないと吐き捨てやがった。 本来美鳥を一番近くで支えるべきだったこいつがだ。 ぐ、と拳をにぎりしめる。 殴りかからんと距離を詰めようとした俺の腕を背後からぎゅっと掴まれた。 静止させようと必死なその両手に、ぐつぐつと煮えたぎっていたものが一瞬にして我に返る。 「……あの、見てもらえませんか?」 声は、俺のすぐ後ろから聞こえた。 「言葉で伝えるの、苦手で。だから、見てもらった方が多分伝わると思うから。」 か細く、不安げに、それでも立華を真っ直ぐ見つめて。 そこに美鳥の決意を感じたのか、立華から否定の声はあがらなかった。 「滑れそうか?」 「うん。怒ってくれてありがとう。どこまで伝わるかわからないけど、頑張ってみる。」 柔らかく微笑んで、美鳥の手が離れていく。 でも俺は、その手が震えていたことに気づいてしまった。 「美鳥君、うちの音響使うか?」 「CDないなら急いで取りに戻るよ?木崎ちゃんが。」 「あ?……あ、いや行くけどよ。」 皆の提案に美鳥は首を横に振った。 「大丈夫、音がなくても…」 「音ならある。」 言うより早く俺は動いていた。 奥のベンチに腰掛けていた木崎を邪魔だと蹴り出して、手にしていたヴァイオリンケースを置き、開く。 皆の好奇と困惑の視線が注がれているのがわかったが、そんなことどうでもよかった。 湿度も温度もコンディションは最悪。それでも、今ここで弾かなきゃならない。今出来る最高の状態で、美鳥を滑らせてやるために。正体がバレようが知ったこっちゃない。 俺はいつもより弓を少しだけ強めに張って松脂を滑らせる。 「あの、さくらい、くん……」 振り返れば、そこには呆然と立ち尽くす美鳥の姿があった。 「調弦に少し時間くれ。」 言いながらも俺はヴァイオリンを左肩に乗せ、A線から順に音を合わせ始めていた。 美鳥はまだ現状が飲み込めていないのか、時が止まったかのようにただ立ちつくしている。 「で、何弾きゃいいんだ?」 ほんの僅かに口角をあげてそう問えば、美鳥は弾かれたように肩を震わせひゅ、と息を飲んだ。 驚きにはくはくと口元を震わせるが、その唇はすぐにぎゅっと引き結ばれた。 「……亜麻色の髪の乙女を。」 「Old Newだな?」 「うん。」 「リズムもテンポも合わせるけど、ピアノとは感覚変わるぞ。」 「わかってる。」 迷いなく、揺らぐことなく真っ直ぐに俺を見つめるその決意の亜麻色を、俺も真っ直ぐに見つめ返す。 一発勝負、失敗は許されない。亜麻色の髪の乙女、演奏時間は―― 「二分四十五秒、きっちり弾ききる。」 「お願いします。」 ぎゅっと拳を握りしめ深々と頭を下げるこいつの想いに絶対にこたえてみせる。 握りしめた弓を引けば、完全五度の綺麗な和音がリンクに響いた。

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