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第39話

氷の感触を確かめるようにゆっくりと滑る美鳥を全員が固唾を飲んで見守る。 円を描くようにリンク中央を滑っていた美鳥は自らの頭に手を伸ばし、束ねていた髪を解いた。美鳥の細い指が掻きあげて梳けば、指からこぼれ落ちた亜麻色がさらりと揺れる。やがて俺達に背を向けて、美鳥は自らの肩を抱くようにピタリと静止した。 こちらから表情は見えないが、場の空気が変わったのがわかる。俺は小さく息を吐いて呼吸を整えてから、弓を構えた。 変ト長調の有名な旋律がリンクに響き渡る。それに合わせて美鳥はゆっくりと滑りだした。 緩やかに、まるで水面を凪ぐ風のように。けれど、音は次第にリズミカルに駆け抜けていく。 クロード・ドビュッシー作曲、亜麻色の髪の乙女。 原曲はルコント・ド・リールの同名の詩をイメージして作られたと言われている。花畑で歌う、亜麻色の髪をした女性に心奪われるという詩なわけだが……現代社会においてそんな淑やかで天使のような女なんているわけないと皮肉を込めて編曲した一曲だ。 原曲の、穏やかに優しい表情をつけろなどど言う表現記号は無視をして、アップテンポで力強さすら感じる曲にした。 早足で流れる主旋律の中で気まぐれに時折弾む音。俺がスピッカートをかけるタイミングで美鳥の身体も跳ね、くるりと軽やかに宙を舞う。時に緩やかに、時に軽快に。 花畑ではなく、氷上で男を魅了する一人の女性が確かにそこに存在していた。 「……男子で、こんな演技ができるなんて…」 ポツリと、彗さんの呟きが耳に入ってきて俺はようやく理解する。 そうか、技や一つ一つの動きが女子選手に近いんだ。 片足を後方から頭上に高く持ち上げ、まるで羽を広げた鳥のように滑る姿には丸みのある柔らかな女性的な美しさを。髪をその手で揺らし氷上を舞うように滑るその姿には女性の妖艶さが感じられるのに、スピードにのって踏み切るその瞬間には力強さを感じる。 華奢で身体の柔軟な美鳥だからこそできる演技。それは、芯の通った強さを感じさせつつも、どこか儚く脆い幻のようにすら思えた。 見るものを翻弄する二面性を美鳥は見事に演じている。 銀盤の上で、さらりとなびく亜麻色を誰もが無言で見つめ続けた。 ほんの少しだけ弓を傾け、速度をさらに上げていく。大きく外側に体を逸らして緩やかに滑っていたその身体が、音に合わせてくるりと宙を舞ったかと思えば、着氷したその場でクルクルと回り始める。 ごくりと、誰かが息を飲んだ。 あるいは、自分自身だったのかもしれない。 ふわりと髪をなびかせるようにゆったりとした回転はすぐに音に合わせて高速に変わる。 高くあげた片足を抱き込むように。高速のスピンは、やがて曲が原曲をなぞり穏やかに戻っていくのに合わせてまた速度を落としていく。 聞き慣れた主旋律が空気を震わせる中で俺たちに背を向けてピタリと静止した美鳥は、ほんの少しだけこちらを振り返り優しく微笑んだ。 ああ、やっぱり美鳥飛鳥は、こいつの演技は……綺麗だ。 最後のビブラートを響かせて、俺は弓を下ろす。 しん、と静まり返ったリンクで皆が呆然とただ氷上を見つめていた。 初めに我に返ったのは誰だっだろう。パチパチと誰かが手を叩く音が聞こえて、それに続くように全員が美鳥に拍手を贈る。その音で美鳥自身もようやく我に返ったらしく、その場で深々と頭を下げてから真っ直ぐに俺に向かって滑ってきた。 スケート靴のまま器用に駆け寄ってくる。 その頬には赤みがさし、亜麻色の瞳はまるで小さな子供のようにキラキラと輝いていた。 「…すごい、すごい!…凄いよ!」 俺の目の前でぴょんぴょんと小さく跳ねるその姿は、先程までとは別人のようだ。 興奮で鼻息を荒くする美鳥に俺は思わず笑ってしまった。 「いや、滑った本人が何言ってんだよ。」 「だって、だって!……こんな…こんな、奇跡みたいな中で滑れるなんて…」 「か、感動しましたぁぁぁ!」 「って、彗さんも泣くのかよ!」 先程までの張り詰めた空気はどこへやら。俺の目の前で盛大に泣き始めた二人にはもう笑うしかない。 とりあえず、きっちり二分四十五秒。美鳥は満足のいく演技が出来たようで一安心だ。 ほっ、と息をはけば背後から晃におつかれと肩を叩かれた。 「いや、凄かった。」 「ほんと、大したやつだよな。」 「……凄かったよ、の演技。」 わざわざ言い直されてぽんぽんと再度肩を叩かれれば、言葉につまる。 気がつけば周りの視線は美鳥だけでなく俺にも注がれていて。大したことはしていないのに何かこう、妙な気恥しさが今更ながらに湧いてきた。 「美鳥飛鳥君に、櫻井……『シキ』君、ね。凄いもの見せてもらったけど、今の事は忘れた方がいいのかな?」 三笠先輩の視線が、手にしたままだった俺のヴァイオリンに注がれる。 「あー、いやまぁ、その…」 「色さぁぁん、僕色さんのマネージャーで本当によかったですぅぅ!」 「し、ししsikiの演奏で演技できるなんて、奇跡だよ!僕、もう、もう…」 「あー、わかったから!二人とも落ち着け。」 興奮のあまり泣きながら余計な事を口走りまくっている二人を止めるのは……まぁ無理なんだろう。 それほどの事を美鳥はやってのけたのだから。 「…………えーっと、他言無用でお願いします。」 腹を抱えて爆笑する晃を横目に先輩に頭を下げれば、彼女はわかってるよと口の端に笑みを浮かべた。 「で、僕達は素晴らしい演技だと思ったわけですけど。……あちらさんはどうなんですかねぇ?」 彗さんと美鳥の背中をよしよしと撫でながら、晃の視線が美鳥の背後に向けられる。 「……美鳥君、」 技術的な事も点数的なことも俺にはわからない。今の演技がプロの目にはどう映ったのか。 睨みつけるように視線を送れば、そこにはその場に立ち尽くし美鳥を見つめる立華の姿があって。 口元を小さくわななかせて言葉を探しているようではあるが、揺らぐ瞳の奥に何を思っているのか……その表情からはうかがい知れなかった。

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