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閑話 ただ一人

銀盤に響き渡るヴァイオリンの音。 鼓膜を震わせる澄んだ音にあわせて美鳥の身体が宙に舞う。目の前に広がっているはずの光景は、現実であるとはにわかに信じられなかった。 俺は今何を見せられてる? 受け持ちクラスの転校生二人が、それぞれ音楽とスケートと特殊な事情を抱えているのは知っていた。 知っていたはず、なのに。 櫻井のヴァイオリンがビリビリと鼓膜を震わせる。優しい旋律のはずなのに、音から伝わる気迫にゾクリと背筋が凍りついた。耳だけじゃない、身体全体が震え全身で音を聴かされているかのようだ。 けれど目の前に広がる光景は、そんな音に聴き入る事を許してはくれない。 亜麻色の髪をなびかせ艶やかに宙を舞う美鳥の姿が視界に飛び込んでくる。氷上というステージで舞い踊るその姿を目で追わずにはいられなかった。 ゴクリと思わず息をのむ。 素人の俺ですら目の前の光景が尋常ではないレベルの芸術作品である事はわかった。圧倒されるという言葉の意味を身をもって理解させられる。 そこにある圧倒的な何か。五感の全てを持っていかれ、呼吸の仕方すら忘れ、見入る。ただ呆然と、目の前に広がる光景に息を飲むことしか出来ない。 時折互いの呼吸を確認するように視線を合わせ、音とスケートというバラバラの芸術を繋ぎ合わせていく。 それは誰の介入も許さない完成された世界だった。 いつからだ、いつからあの二人は。 こんなもの見せられれば、二人の距離がどれほど近いのかが嫌でもわかる。 これは、この演技は…… ぎゅっと小さくシャツの裾を引かれ、俺の意識はようやく見入っていた目の前の光景から隣に立つ小さな存在へと移った。 周りと同じようにその場に立ち尽くし、呆然とリンクへ視線を向けるその口元は、けれど周りと違いぎゅっと苦しそうに唇をかみしめ何かに耐えているようだった。 藍原、と名前を呼んで声をかけてやりたかったけれど、言葉が見つからず結局俺も口元を引き結ぶ。 こいつは一体いつから気づいていた? 気づいた上で櫻井の頼みを聞き入れ、美鳥に手を貸したってのか。 なんで、なんで…… 一際高いヴァイオリンの音が空気を引き裂くように響き渡って、俺のシャツを握る小さな手がびくりと震える。 それでも視線は前を向いたままだ。美鳥の演技と、恐らくは視界の隅に櫻井の姿を映して。 どうしてだ、どうして誰にも気づかれず、こいつはここに一人なんだ。 この世の中、一体何億人の人間がいると思ってるんだ。 一人、たった一人でいい。誰かいるだろう? 小さく震えるこの手を握って、抱き寄せて。大丈夫だと、そばに居ると言ってくれる誰かが。 こいつだけを見て、甘やかしてやれる存在が。 自分の感情は押し殺していつも他人の事ばかりなこいつに、手を差し伸べてくれる人間がいないなんて嘘だろう? なんで、なんでいないんだよ。 叫び出したい衝動をぎゅっと押さえ込んで、俺は視線を再びリンクへ戻した。 緩やかに流れる旋律に耳を傾け、くるりと回る美鳥を目で追う。 意識は小さく震える手に向けたまま、けれど何も言わず、ともすればのばしそうになる手を固く握りしめた。

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