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第43話
零れ落ちてきそうなほどに無数の星々が夜空にひしめき瞬いている。しん、と澄んだ空気の中で見る天然のプラネタリウムはまさに圧巻だった。
隣で空を見上げる美鳥からは感嘆のため息が漏れる。
「知らなかった。こんなに綺麗だったんだ……」
胸の高さまであるフェンスに寄りかかり、俺はぼんやりと小さな瞬きを見つめる。美鳥も俺の隣で同じように夜空を見回していた。
「……どうしても一曲だけ引っかかってる曲があって。気晴らしというか、参考資料にこの空を見たくなった。」
俺が依頼を受けているアニメ映画の音楽。オーケストラ用に編曲も終わり、監督はじめ関係者からも否定の声は上がらず全て問題なく話は進んでいるのだが……クライマックスの一曲がどうしても胸に引っかかっていた。
「気に入らないって事?」
「そうじゃないけど……もしかしたら解釈が間違ってるのかもって思い始めてさ。」
主人公の幼い姉妹が夏休みに祖父母のいる田舎へ里帰りに訪れ、そこで不思議な少年と出会うひと夏の小さな冒険を描いた話。
二作目の今回は、また来年と約束した通り、一年後の夏休みに再び姉妹と少年が再会を果たすところからはじまる。
今作では魔法のような不思議な力を使う少年の正体について少しだけ触れるのだが、少年と共に訪れる世界で死んだはずの飼い猫や大好きだったおばあちゃんに再会するような描写から察するに、少年はあの世と現世を繋ぐ存在であるらしい。
少年自身もとうの昔に死んでいて、おそらくは何百年と長い時間死人の魂をあの世に案内する仕事をしているようだった。……行方不明の兄の魂を探すために。
シナリオと絵コンテを見る限り今回はかなり重いテーマを扱っていて、俺はその世界観に合わせて曲を書いたつもりだったのだけど。
「……なぁ、美鳥はあの映画観たんだよな?」
「うん。音楽はもちろんだけど、とにかく絵がすごく綺麗で引き込まれるんだよね。子供達の大冒険が自分の事みたいに感じられて、ドキドキしながら観てたよ。」
一作目は主人公姉妹と少年の心温まる友情の物語だった。喧嘩して、仲直りして、力を合わせて冒険をする。見終わった後には心が弾んでいるような、そんな話。
美鳥はきっと子供のように純粋な心であの映画を見たんだろう。
それは容易に想像出来て、だからふと思ったんだ。
もし、純粋無垢な心の人間が今回の話を見たら、どう思うだろうって。
クライマックスでは星空の下、少年が主人公の姉妹とまた来年と約束を交わして夜空に消えていくシーンが描かれている。
約束はするのだが、紆余曲折あって兄を見つけられた少年がおそらくここに来ることは二度とない。そんな事とは知らず姉妹は笑顔で少年と別れる……そんな物悲しいシーンだ。だから、俺はそれに合わせて切なく涙を誘う曲を書いた。
けれど、それは所々に散らされたヒントを読み取れる大人から見た感想だ。
主人公も、この映画を観てほしいのも小さな子供達。もしその視点でこの話を観たとすれば……
「来年かぁ、楽しみだなぁ。絶対観に行くからね。」
星空みたいにキラキラと輝くその瞳に、俺もつられて口の端が上がる。
ああ、やっぱりそうだよな。
俺はズボンのポケットからスマホとメモ帳を取り出す。スマホのライトを付けて、片手でメモ帳の白紙のページを開こうとページを捲っていると、細い指が俺の手にしていたスマホに伸ばされた。
「手伝うよ。」
悪いな、とその言葉に甘えて、俺は小さな光を頼りに白紙の五線紙にペンを走らせる。
きっと、もっと優しい音だ。
来年会える事を信じて疑わない純粋無垢な心は、満天の星空に溶けて消えゆく友人の綺麗な姿に悲しみよりも感動を覚えるんじゃないか。
この星空みたいに。俺の隣でそれを見上げるこの亜麻色みたいに。柔らかく優しい幻想的な音。そこにほんの少しの切なさを入れてやればいい。
脳裏に浮かんだ旋律を書き留めて、俺はメモ帳を閉じた。無言で返却されたスマホとともにズボンのポケットにねじ込む。
「曲、出来そう?」
不安そうに覗き込んできた美鳥に、俺は小さく頷くことで答えてやる。
「……よかった。」
心底安堵した深い吐息が漏らされた。
「櫻井君、ずっと元気がなかったから。お仕事で悩んでたんだね。」
「あー。まぁ、な。」
それも確かにあるのだろうが、多分ここ最近のどんよりと胸にのしかかっている感情は別の所からきている気がする。
映画のように消えはしないだろうけど、それでも手の届かない所へ行ってしまうんじゃないかって焦燥感。
ずっと隣にいるのは当たり前なんかじゃないって、俺は知っていたはずなのに。
そっと手を伸ばせばその亜麻色の髪に簡単に触れられる。梳くように撫ぜてやれば、美鳥はふわりと柔らかい笑みをこぼした。
つきりと、胸の奥が締め付けられる。
「……あのね、櫻井君。ずっと、言いそびれてた事があって。」
美鳥の手が、俺のシャツの裾を掴んだ。
俺はその手をとって、星空とその顔を見ながら美鳥の言葉をじっと待つ。
「あのね、最後の大会……エントリーする時に櫻井君をコーチとして申請したんだ。」
思いがけない言葉に、俺は意味を測りかねた。
「えっと……それ、今からでも立華に変更出来ないのか?」
確か、エントリーをしたあの時はまだ立華と和解する前だったはずだ。
あいつなら美鳥のそばで的確なアドバイスをしてやれる。美鳥にとってはそれが一番いいに決まってる……のに、俺の言葉に美鳥は一瞬瞳を見開き、すぐにその表情を曇らせた。
「ぁ……そう、だよね。迷惑、だよね。」
ごめんなさいと悲痛な面持ちで俯く美鳥に、慌てて握っていた手に力を込める。
「違う、そういう意味じゃない。俺は立華みたいに専門的な知識はないし、コーチだなんて言われても、してやれることなんて何も…」
「そうじゃなくて、」
おそるおそるこちらを見上げる亜麻色が、不安そうに揺れる。
「あの、大会でコーチとして申請した人は、観客席じゃなくてリンクで……選手のそばで試合を見ることが出来るんだ。」
つきり。また、胸が痛む。
「……それこそ、俺でいいのかよ。」
俺がいて何になる。何をしてやれるっていうんだ。他のやつの方がよっぽど美鳥の事を思って上手く助けてやれるはずだ。
それなのに、その瞳は他の誰でもなく俺を真っ直ぐに見つめてくる。
「……櫻井君がいい。」
遠慮がちに、けれどはっきりと告げられた言葉に、俺は言葉を失った。
息が、出来ない。
「最後の試合は、櫻井君にそばで見ていてほしい。」
どくんと心臓が大きく脈打った。
呼吸の仕方が思い出せなくて、息苦しさが増していく。
握る手の熱さが伝染して、じわりと火が灯ったように身体が熱い。
「だめ、かな?」
消え入りそうな声が、俺の中の何かを呼び起こす。
湧き上がる衝動のままに、俺は握っていた手を引き美鳥の身体を抱き寄せた。
ぴくりと肩を跳ねさせた身体は、けれど、なんの抵抗もなく俺の腕の中に収まる。
「そばにいる。お前の隣で見届けたい。」
肩口で美鳥が小さく頷いたのがわかった。
誰にも渡したくない。
こいつの隣も、こいつ自身も。
いや、隣ですら足りない。この距離ですらもどかしい。
もっと、もっと。
この衝動が何なのか理解できないまま、俺は美鳥の唇を塞いだ。驚きに見開かれた亜麻色は、すぐに閉じられる。
角度を変えて、何度も食むように。衝動のままに貪っていく。
「ん、…」
漏れる吐息が、ぞくりと俺の身体を震わせた。
もう止めることなんて出来なくて、俺はその頬に手を這わせ、指で唇を僅かにこじ開け自らの舌を侵入させる。
「…ふぁ、っ、…」
舌を絡めとり吸い上げれば、その口からは熱を持った吐息が漏れるばかりで、拒絶の声はあがらなかった。
いつしか互いに夢中になって熱をからませあい、くちゅくちゅと淫猥な水音が鼓膜をふるわせる。
どれだけそうしていただろう。飲みきれなかった唾液が口の端からつたい落ち、息苦しさから仕方なく唇を離したのだけれど、内にある衝動は治まるどころか増していくばかりだった。
「さくらい、くん……」
とろんと焦点の合わない瞳がぼんやりと俺を見つめる。
足りない。
もっと、もっと、こいつが欲しい。
身体の奥底を震わせ湧き上がる激しい感情を抑えるすべなんて知らなくて。
俺は衝動に突き動かされるまま、気がつけば美鳥の手を引いていた。
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