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閑話 神様に触れた朝

まだ夜の空気を色濃く残す空が、ほんの少しだけ白み始める時間。この時間に起きることはもう習慣になっていて、すっと意識が浮上してくる。 今日の練習メニューはどうしよう。ジャンプの踏切も確認したいし、ステップももう一度見直したい。 あれ、でも今日はオフにするって話をしたような…… 夢と現実の狭間の中でぼんやりと考えながらゆっくりと目を開いて、 「っ!?」 僕は固まった。 視界いっぱいに映る寝顔に、驚いて呼吸が止まる。思わずベッドに飛び起きて、けれど、起こしちゃいけないと咄嗟に自らの口を両手で塞いだ。 なんで、どうして。 混乱する頭とは裏腹に、脳裏に深夜の出来事が映像として流れてくる。 部屋を抜け出した櫻井君を追いかけて、屋上で星空を見て。それから…… 耳元で感じた余裕のない吐息、触れた肌の温もり。それに、身体の内で感じた熱さ。 その全てが蘇ってきてかぁっと身体が火照る。 夢と疑いようもない。だって今僕は櫻井くんの部屋で、生まれたままの姿で二人でいるのだから。 自らの身体を確認すれば、いくつもつけられた真新しい鬱血の痕がいやでも目に付く。櫻井君が僕につけた、痕。 「……なんで、」 なんでこんな事になったんだっけ。 昨日の僕はどうしてこんな事をしてしまったんだっけ。 すぅすぅと規則正しく寝息を立てるその顔を見ながら、僕の頭は完全に混乱していた。 初めて第二音楽室で櫻井君のピアノを聴いた時、神様が現れたって思った。 だって、こんな事あるはずない。ずっとずっと大好きだったあのsikiが目の前にいるなんて、都合のいい幻を見ているんだって思った。 でも、それは幻でも何でもなくて。櫻井君は確かにそこにいて、僕に手を差し伸べてくれたんだ。 一人で悩み、もがいていた僕を叱咤して、奮い立たせてくれた。そばに居るって言ってくれた。 彼の音楽と同じ、優しくて温かい。するりと心の内に入ってきて、気がつけば深い所に根を張り支えてくれている。 櫻井色(さくらいしき)は、やっぱり僕にとっての神様だった。 だから僕は昨日星空の下、祈るように神様にお願いしたんだ。 そばで見ていてほしいって。 他の誰でもない、この人の音で、この人の隣で滑りたい。 知り合えただけでも奇跡なのに。それはあまりに我儘で贅沢な願いだとわかっているのに。欲しいと望んでしまう。どんどん強欲になっていく自分が怖かった。 でも、櫻井君はそんな僕の欲求を受け入れてくれて、それどころか僕を求めてくれた。 鍵盤の上を滑って魔法みたいに音楽を生み出すあの長くて綺麗な指が僕に触れて、不器用な優しさを紡いでくれるその口で、唇を塞がれて。 求められて、強く思ってしまった。 神様が欲しい。 この人の視界に僕だけが映ればいいのに。誰よりも近い場所で、僕を見てくれればいいのに。 そうだ。そう思って、あの時僕は彼の手を受け入れた。 ほんの一時でも、この人を独占できたなら。そう思った。 たとえそれが、誰かの身代わりだったとしても。 朝が苦手な櫻井君はまだ起きる気配がない。 いつもは目覚ましを頼まれて寝ている彼をすぐに揺り起こすのだけれど、今日はそっとその顔を覗き込んでみる。 意外とまつ毛が長いんだ。瞳を閉じているといつもよりどことなく幼く感じる。 その寝顔を見ていると、ぎゅっと心臓を掴まれたみたいに苦しくなってきた。 『……みどり、』 櫻井君の声を思い出して、じん、と胸が震える。 耳元で熱を孕んで何度も囁かれたその名前は、いったい誰を呼んでいたんだろう。 櫻井君には好きな人がいる。 あんなにも切なく苦しく胸に響く曲を作るくらい好きな人が。 もし、このまま櫻井君が目を覚ましてこの状況を見たら、彼はなんて言うだろう。真面目な彼はきっと僕に謝ってくれるんじゃないかな。夜のことは間違いだったって。 そんなの、 「……嫌だ。」 知り合えただけでも奇跡みたいな人。 僕にとっての神様。 わかっていたはずなのに、僕はなんでこんなにも欲深くなってしまったんだろう。 櫻井君に合わせる顔なんてない。 僕は櫻井君を起こさないようにそっとベッドから抜け出して、床に散らばっていた僕の衣服をかき集めた。 身体の内側にはまだ違和感があって、動けば腰に鈍い痛みがはしったけれど、それでもこのままここに居ることは出来そうになかったから。 シャワーを浴びて、どこか一人になれる所で落ち着こう。 心を落ち着けて、櫻井君に何を言われてもちゃんと笑って受け入れられるようにしなくちゃ。 ……そんな事、多分無理なんだけど。 集めた衣服を抱えて、僕はもう一度櫻井君の寝顔を覗き込んだ。 胸が苦しい。視界に彼が映るだけで、どうしてこんなにも切なくなるんだろう。 「……しき、」 初めて呼んだ彼の名前は、ただ僕の胸を締め上げるだけだった。 僕の声は届かない。届いてはいけない。こんな感情を抱いてしまってごめんなさい。 寝息を立てるその唇にそっと自らのそれを重ねて。 黎明の空の下、僕は神様に懺悔してそっと部屋を後にした。

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