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第46話 大事なものは
寝返りをうち、いつもと違う気だるさに意識がぼんやりと浮上してくる。
まだ夜明け前なのか、薄暗い室内。肌寒さを感じて布団を手繰り寄せ、肌に触れる感触に違和感を覚えた。
何かがおかしいと感じつつ、とりあえず今何時だろうかと、ベッド上に置いてあるはずのスマホを手探りで探したが見つからない。
昨日どうしたんだったかと霞がかった頭で考えて……
「っ!?」
俺の意識はようやく覚醒し、飛び起きた。
肌寒いのは当然で、俺は裸の状態で寝落ちていたらしい。
数時間前の行為が脳裏に浮かび、一瞬にして顔が火照る。頭を抱え、隣に視線を落とすが、そこには誰の姿もなかった。
「美鳥?」
呼んでも返事は返ってこない。
ぐちゃぐちゃに乱れた衣服にシーツ。情事の形跡はあるのに、そこから美鳥の痕跡だけが綺麗に消え去っていた。
夢、ではないはずだ。
身体に残る感覚が現実だと告げている。まだあの時の濃密な空気が部屋に漂っている気すらした。
「……最低だな、俺。」
深く吐き出した息が空気に混ざり溶けていく。
同意、とは到底言い難い。あいつはいいよと口にはしていたが、俺にしがみつくその手は震えていた。
何も言わず、美鳥の優しさにつけ込んで己の欲を発散しただけだ。あんなもの、ただの独りよがりの性欲処理じゃないか。
欲いしいと思った。
その身体を組み敷いて、抱きたいと確かに思った。
けれど、なぜ?俺はそれすらわからないままあいつを抱いた。
正直、今美鳥がここにいなくてよかったと思ってしまった自分は本当に最低だ。
「……美鳥、」
避けられたのか、それとも普通に朝練に出かけただけなのか。
シーツを撫ぜれば、まだそこにはあいつの温もりが残っている気がした。
このまま無かったことにはできない。起きてしまった事実は変えられないし、美鳥になんの言葉もないままなんて事できるわけがない。
ちゃんと伝えないと。
けど、何を?
見て見ぬふりをしてきたものに、俺は答えを出さなきゃいけなかった。
「で、何があったわけ?」
早朝の第二音楽室。
昨日のメモを元に五線紙に音符を書き込んでいれば、突如現れた晃に開口一番詰め寄られた。
「今日はオフにするって言ってたはずの美鳥君はなんでか部屋にいないし、理由を知ってるかと尋ねに来てみれば色は色で死んだような目ぇしてるし。」
「……べつになにも、」
「ないわけないよね?」
無言は肯定。わかっていても誤魔化す言葉すら浮かばず、俺は小さく息を吐く事で答えた。
そもそも、とぼけたところで聡い晃を騙し通せるとも思えない。
「ついにキスでもしちゃった?」
「……。」
平静を装いたかったのに、書き記していた音符が歪む。
無言は肯定。晃の口元がニヤリと歪められるが、下手に口を開いてそれ以上の余計な事を知られてしまうよりずっといい。俺はあえて否定しなかった。
「そっか、そっか。緑ちゃんの事まだ吹っ切れてないのかと心配してたけど、美鳥君と付き合うのか。」
「違ぇよ。……美鳥とはそんなんじゃねぇよ。」
「は?」
どういう事かと眉をひそめたその目が如実に語っていたが、俺はそれに対する答えをまだ持ちあせていないわけで。逃げるように視線をそらせることしかできなかった。
「え、なに。何も無いのにキスしたの?」
「気がついたら、というか、その……俺もよくわかんねぇんだよ。」
わしゃわしゃと髪をかき乱し、ため息をひとつ。
「…………緑の時とは全然違うんだ。」
ぽつりと漏れた言葉が全てだった。
一年前……いや、つい最近まで幼なじみに抱いていた感情は確かに恋愛感情のそれだった。隣にいるのが当たり前で、その事に居心地の良さを感じて。
でも、今美鳥に抱いている感情は違う。
あいつの隣に並び立つ事に必死で、あいつの一挙一動に常に胸の奥底をかき乱されている。こんな激しい感情が自分の中にあるなんて、今まで知らなかった。
こんな醜く激しいものが、緑に抱いていたものと同じだとは思えない。
「じゃあさ……僕とキス、してみる?」
不意にかけられた言葉に驚いて視線を向ければ、晃は身をかがめぐっと顔を近づけてきた。
ふ、と吐息が口元にかかる。
けれど、互いの唇が触れ合う前に俺は晃の口を片手で塞いだ。
「馬鹿言え。お前とはそんなんじゃねぇだろ。」
力を入れすぎたのか、一瞬目の前の顔が苦しそうに歪められる。
ゆっくりと離れていったその口元が
なくどこか寂しげに弧を描いた。
「……答え、出てんじゃん。」
「……。」
そう、なんだろうか。
認めたくない自分がどこかにいて、消化できない感情がぐるぐると胸の内をさまよっている。
それでも、触れたいと、欲しいと思った事もまた事実だった。
「とにかくちゃんと考えて、答えは美鳥君に言ってやりなよ。夏休み入ったら色はほとんど寮にいないんでしょ?もう時間ないよ?」
「……わかってる。」
晃の言う通り、来週から夏休みに入れば、俺はオーケストラとのリハーサルや打ち合わせの為にほとんど寮にはいない。
帰省して実家からスタジオやホールを行き来することにしているのだが、それはつまり美鳥と顔を合わせることもなくなるという事で。
大会前には帰ってくる予定にはしているが、正直今回の仕事は手探りな状態でイレギュラーが起きる可能性は十分にある。不測の事態に備えて予備の日程まで入れると、寮に戻れるのは大会の前日だ。
「ただでさえ側にいてやれないんだから、メンタル支えてやんなよ?美鳥君にとってsikiは神様なんだからね。」
「わかってる。」
悩んでる場合じゃない。この曖昧な状態のままで離れてしまう事だけは避けたい。
わかってはいる、のだけど。
はぁ。
俺の煮え切らない態度に晃の口から盛大にため息が漏らされる。
「色でこうなら美鳥君はもっと動揺してそうだなぁ。」
「……朝起きたらいなかったから、知らねぇよ。」
視線が痛い。無言の批判がチクチクと背中に突き刺さり、居心地の悪さに俺は髪をかき乱した。
自分でも最低なのはわかってる。わかってるんだよ。
それでも、わからないんだ。
「今日はそもそも明日の取材の練習するつもりだったし、美鳥君は一日僕の部屋でお預かりしとく。一人でゆっくり考えな。」
ぽん、と肩を叩かれて、俺はわかったと事務的な返答を返すことしか出来なかった。
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