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第48話
コール音が鳴り響く時間が永遠のように感じられた。
絞首台へと自らの足で進むような緊張感と絶望感。いったい何がどうなっているのかわからず、混乱する頭でとにかくただその時を待つ。
『Hi This is Sakurai…』
やがて聞こえてきたソプラノに、俺は知らず手にしていたスマホをぎゅっと握りしめた。
「もしもし、」
『あれ、色 さん?……あなた今、日本よね?どうしたのこんな時間に。』
「あー、遅くにごめん。」
母親のもっともな問いに、返答に困る。
彗さんからとにかく電話しろと言われたものの、具体的な話は何一つ聞けなかった。何故電話をしたのかなんて、知りたいのはこっちの方だ。
とりあえず、家族の身に何かあったとかそういう話ではないらしい。
『まぁいいわ。私もちょうど連絡しなきゃと思ってたのよ。……あなた、転校したことを周りに伝えてなかったでしょ。』
「へ?ああ、彗 さんくらいにしか伝えてないけど。」
そもそも他に伝える相手も思いつかないのだが、それがどうかしたのかと問えば、電話の向こうからもう、と不機嫌そうな声がする。
『出欠の確認こっちにきちゃったから勝手に出席で出しといたわよ?』
「は?何の話だそれ。」
『やだ、それも聞いてないの?だから、八月の末に――』
聞こえてきた言葉に、頭の中が一瞬にして白く染った。
「……なん、だって?」
『だから、出席でちゃんと送っておいたからね。前々日には一度家に帰ってきてよ?』
血の気が引いていくのがわかる。
聞こえた言葉を頭の中で何度反芻しても、意味も結果も変わらない。
そんな、それじゃあ。
でも、それは、
「まってくれ、その日は…」
『何があろうと行く以外の選択肢はないわ。わかるでしょう?』
「でもっ、その日はっ、」
『色さん。』
震える俺の声は、静かに拒絶された。
『何があるかは知らないけど、許されないわ。色さんは色さんの思う通りの道を進んで好きにすればいいって思ってるけど、今回ばかりは別。』
ピシャリと全てを跳ね除ける圧がそこにはあった。
『櫻井の人間として、音楽に携わるものとして、参加は絶対よ。』
返事なんてできなかった。
わかった、なんて言えるわけがない。
だってその日は、何よりも大事な日なのに。
突きつけられた現実が全く信じられないまま、通話を切る。スマホはそのまま手から滑り落ち床に落下した。
真っ白だった頭にじわじわと残酷な現実が染み入ってくる。絶望の漆黒が全てを塗りつぶしていく。
なんで、
どうして。
誰が悪いわけでもない。だからこそどうしようもない。
ぎりっ、と噛み締めた奥歯が音を立てた。
「、くそっっ!」
ダンッ!と怒りを壁にぶつけたところで現実は変わらない。
じん、と痺れた手をそれでも血の気が引くほど握りしめて。俺は行き場のない絶望と苛立ちを何かにぶつけずにはいられなかった。
何があろうと同じように朝はやってくる。
一睡も出来ないまま朝を迎え、部屋に籠っていても仕方ないといつものように第二音楽室に早朝から来てみたものの、何もする気がおきなかった。
ピアノの前に座ることすらせず、ただぼんやりと窓から外の景色を眺める。
解決策なんて何処にもない絶望的な状況に、何も出来ず立ち尽くすだけ。
遠くからパタパタと足音が近づいてきて音楽室のドアが開かれても、俺は動くこともせず、入ってきた存在にただ視線を向けただけだった。
「おはよ。美鳥君朝練に行ったからメッセージ貰った通りこっそり来てみたけど……何があったの?」
じ、と俺の顔を覗き込んできた晃 はいつもより声のトーンを落とした。
多分酷い顔をしてるんだろう。その視線には心配と疑問の色が浮かんでいる。
二人だけで話がある。
今朝、そうメッセージを送って晃を呼び出したのは他ならぬ俺自身だ。決して面白い話ではないということは、俺の顔色を見て察しがついたんだろう。
何を聞かされるのかと身構える晃に、俺はポツリと口を開いた。
「……大会、行けなくなった。」
大きな瞳がさらに大きく見開かれ、小さく開いた唇がわななく。
「なん、で。だって、仕事は調整つけたって。」
「全くの別件だ。俺も昨日聞かされたんだよ……」
昨日母親の口から告げられた事実をそのまま晃に伝えれば、その顔は次第に険しいものに変わっていく。
「それって欠席出来ないの?もしくは遅刻とか。」
「相手が悪すぎる。……m-vex の代表取締役社長だ。」
「な、」
完全に言葉を失った晃に、もう笑うしかない。
俺だって聞かされた時は絶句した。そして同時に絶望したんだから。
「m-vexって、あの、日本最大の音楽レーベル……」
「そうだよ。そしてその代表取締役は、うちの社長の息子だ。」
m-vexは晃の言う通り日本最大の音楽レーベルで俺の両親もそれぞれ過去にCDを出している。音楽イベントや経営するスタジオ、コンサートホールなど、日本で音楽に携わる人間なら必ずと言っていいほど何かしらの関わりがある会社だ。
輸入レコード販売の小さな会社からスタートし、わずか数十年で日本最大の巨大な会社にまで急成長させた創業者。それが何を隠そううちの会社の社長だったりする。
たった一代で他に並ぶものがないほどに会社を大きくして日本の音楽業界に多大なる影響をあたえたその人は、十数年前にあっさりと他人に会社を譲り、今後は好きな事だけをやりたいとクラシックとジャズを専門に扱う会社を立ち上げた。
この会社は僕の趣味だから。そんな社長の口癖と共に俺の所属する会社を立ち上げた経緯やm-vexの話は聞かされてはいた。数年前に優秀な息子が代表取締役のポジションにおさまり、今後が楽しみだと嬉しそうに話していた事も覚えている。
だけどまさか、こんな事になるなんて。
「要は音楽関係者の集まりだ。今後も音楽をやっていきたいなら欠席なんて選択肢はない。」
「そんな……」
拒否権のない集まり。それがまさか、よりにもよって大事な一日と重なるなんて。
美鳥が出場する地区大会の初日。それは俺にとって何よりも大事な日だったのに。
「で、でも、二日目、フリープログラムは見に来れるんだよね?」
詰め寄られ、真っ直ぐに見上げてくる晃の視線を、俺は受け止めきれなかった。逃げるように視線を逸らし、奥歯を噛み締める。
「……会場、シドニーなんだ。」
「オーストラリア!?」
「フライトだけでも半日かかる。……間に合う確証はない。」
予定通りに会場を抜け出せたとして。運良く飛行機があったとして。運良く大会会場までの道が空いていたとして。
それでも、確実に間に合うとは言えない。そんな確証のない事を美鳥に言えるわけがない。
約束、したのに。
一番近くで見てるって。
「……美鳥君に、なんて言うつもり?」
そんなの俺が知りたい。
何を言ったって傷つける。どんな理由であろうと、約束を違えることに変わりはない。
一人で大丈夫だと、辛そうに笑うあの顔はもう見たくないのに。
そんな事になるくらいならいっそ、
「……音楽、辞めるかな。」
「ちょ、色っ!」
自暴自棄に陥って半分本気でそう呟けば、制服のネクタイを思いっきり捕まれる。
眉間に皺を寄せてぎ、と俺を見上げるその顔は何故だか泣きそうに見えて、俺はそれ以上何も言えなくなった。
「っ、冗談でもそんな事、」
「……駄目だよ。」
聞こえた声に俺も晃も弾かれたように肩が震える。
なんで、ここに。
理由を考える間もなく、俺達はほとんど同時に音楽室の入り口へと視線を向けていた。
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