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第49話

そこに立っていた存在に、つ、と背中を冷たい汗が伝い落ちた。 「美鳥……」 ぎゅっと口を引き結び、咎めるように真っ直ぐこちらを見つめる亜麻色に、俺も晃も言葉を失い息を飲む。 「なん、で…」 「練習に行こうと思ってたんだけど、その前にどうしても謝りたくて。……その、昨日、態度悪かったから。」 俺達に歩み寄った美鳥は、ごめんなさいと丁寧に頭を下げた。 どうやら自室に戻って俺がいない事に気づき、第二音楽室までわざわざ追いかけてきたらしい。 「廊下まで話、聞こえてて。……途中からでよくわからなかったけど、音楽関係の人達が集まる日が、僕の地区大会と重なったんだね?」 誤魔化す方法なんて思いつかなくて、俺は正直に首を縦に振った。 知られた。 もちろんちゃんと話さなければならなかった事だ。だけど、まさかこんな形で。 俺も晃も突然の事にどうしていいかわからず、室内を沈黙が支配する。 美鳥は怒るでもなく、責めるでもなく、真っ直ぐに俺を見つめた。 「行かなきゃ駄目だよ。」 泣きもせず、笑いもせず。じっと俺を見たまま表情を変えず、当たり前のように美鳥は言う。 まるで小さな子供の悪戯を咎め、言い聞かせるような優しい声音で。 「っ、でも、」 「……僕の演技時間なんてわずか数分だよ。その数分のために、櫻井君の一生を棒に振っちゃ駄目だよ。」 嫌だ、と言い返せなかった。 約束したのに。 そばにいると言ったのに。 何よりも俺自身がこいつの隣にいたかったのに。 言葉に出来ない苛立ちを飲み込んで、ぐっと唇を噛む。 わずか数分が美鳥にとってどれだけ大切なものなのかわかっていて、それでも俺は頭を下げる事しか出来なかった。 「……ごめん。」 それしか言えない。でも、そんな俺にやっぱり美鳥は笑った。 眉間に皺を寄せて、それでも優しく微笑んだ。 「大丈夫。櫻井君がいてくれたから、ここまでこれた。もう十分支えてもらったから。」 大丈夫なわけがないのに、その苦しそうな笑顔にかける言葉が見つからない。 行かなきゃ一生後悔するとわかっているのに、どうにも出来ない。何も言ってやれない。そんな自分が許せないのに、美鳥は俺を責めることなく全てを受け入れた。 「櫻井君は、櫻井君の事を一番に考えなきゃ。僕も、僕の事を頑張るから。」 血の気が引くほど強く握りしめていた拳に、美鳥の両手がのばされる。 細く綺麗な指が俺の手を包み、優しく握られた。 「大丈夫。もう一人じゃないって、ちゃんとわかってるから。」 真っ直ぐ俺を見つめていた亜麻色は優しく細められ、そうしてその視線は隣にいる晃へと向けられる。 晃の大きな瞳がさらに大きく見開かれ、嬉しそうに顔をほころばせた。 「よし!じゃあ激励会やろう。美鳥君は大会を、色はお仕事頑張れって、パーッとやろ!」 両手を大きく広げ、晃はそのまま思いっきり俺と美鳥の肩を抱き寄せてきた。 飛びつかれ、頬がつくほどぎゅっと抱きしめられて、俺も美鳥もよろけながら笑うしかない。 全く、行動も言動もなんでこうこいつは突拍子もないんだか。 けど、その提案は悪くない。 「そう、だな。」 初めて美鳥の演技を見た時、美鳥は重圧に潰されそうだった。 今まで育ててもらった人達を裏切り、非難の目に晒されるかもしれない中で、それでも一人で氷上に立とうとしていた。 でも今は違う。もちろん、のしかかるものが消えたわけではないだろうけど、それでも押し潰されそうなその身体を支えてくれる人間がいる事を、今の美鳥はちゃんとわかっている。 大丈夫。美鳥のその言葉を信じよう。 「そばにいられないけど、気持ちはいるつもりだからな。しっかり送り出させてくれ。」 「うん、ありがとう。櫻井君も頑張って。」 互いに顔を見合せ頷けば、俺も美鳥も何故だか晃から頭を撫でられた。 擽ったそうに笑う美鳥には、もう苦しそうな影は感じられない。 晃はいい意味でも悪い意味でも空気を掻き乱してくれるが、どうやら今回は助けられたみたいだ。なんだかんだ、こいつに頼ってる部分が大きいんだよな。 頼むなと小さく呟けば、任せろ!と元気な声が返ってきた。 「よーし、そうと決まれば会場押さえないとね。」 「押さえるも何もどうせあそこだろ?」 「あ、やっぱりそうだよね。……大丈夫かなぁ。」 不安そう……いや、同情の表情を見せる美鳥に晃は心配するなとその背中をバシンと叩いた。 「だーいじょうぶ、大丈夫!ちゃんと片付けとくから」 いや、問題はそこじゃねぇよ。なんて突っ込みを入れる前に、俺達は顔を見合せ、声を上げて笑った。

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