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閑話 美鳥飛鳥はかく語りき

一つ。他の選手に影響を与えちゃうかもしれないから、選手を引退するつもりだということは大会後まで隠しておくこと。 一つ。櫻井色の名前を出す事は禁止。 一つ。sikiの話をする時は慎重に。 一つ。ヤバイと思ったらすぐに藍原(あいはら)君に連絡する事。 昨日藍原君と特訓した際に、必ず守るようにと言われた事を頭の中で復唱する。 畔倉(あぜくら)アイスアリーナにあるレストランのすみっこで、僕はいまだかつてないくらい緊張していた。元々取材を受けるのは苦手なのだけど、今回はそんな中でも特別な取材だ。絶対、絶対に余計な事は言わない。自分自身に言い聞かせて、頑張るぞと僕はテーブルの下でこっそりと拳を握りしめた。 畔倉アイスアリーナの中にあるレストラン『南極亭』。放課後すぐの、夕食にはまだ早いこの時間に利用者はほとんどなく、うっすらとかかるBGMが耳につくくらい店内は静まり返っている。 そんな店内の隅で向かい合って座る雑誌社の方に、僕の心臓は破裂しそうにバクバクしていた。 リンクで待っていてくれている藍原君の所に今すぐ逃げ出したい。そんな気持ちを何とか押し殺す。 パンツスタイルのスーツをピシッと着こなした目の前の女性に、僕はよろしくお願いしますと震える声で頭を下げた。 「月間ピアニッシモの朝倉(あさくら)と申します。本日はよろしくお願いいたします。」 待ち合わせの時間ピッタリにやってきて僕と藍原くんに名刺を差し出してきた時と同じように、朝倉さんは礼儀正しく一礼した。 「今回は大会前のお忙しい時に取材に応じていただき、ありがとうございます。」 「あ、いえ。」 高校生の僕相手にあまりにもご丁寧に対応していただいて、恐縮してしまう。 相手のペースに飲まれないように。そう藍原君には言われたけれど、僕は既にどうしていいかわからずオロオロとするばかりだった。 「今注目されている選手の方に、どうやって演技の音楽を選曲されているのかをお伺いしておりまして。差し支えなければ次の大会のBGMをお聞きしてもよろしいですか?」 「は、はい。」 この質問は何度も受けた。昨日の藍原君との特訓でも、必ず出るよと用意してもらった台本に赤線まで引かれた。 他の取材の時にも聞かれた事があるし、慎重に、普通に喋って大丈夫。 それでも心臓をばくばくさせながら、僕は二曲の曲名を告げた。 すると、朝倉さんの瞳が少しだけ大きく開いて、それから嬉しそうに口元が綻んだ。 「あ、やっぱりsikiの曲を使用されるんですね!そうじゃないかと思ってたんです!」 「あ、あの、」 「あ、すみません。私、sikiの曲の大ファンでして。」 先程まで真面目なキャリアウーマンなんだろうなと思っていた人が、sikiの名前を聞いた途端にその表情を変えた。 嬉しくて、つい。と肩を竦める朝倉さんに、少しだけ親近感が湧く。 「美鳥さん、sikiの曲をよく使用していらっしゃいますよね。お好きなんですか?」 「えっと、……」 慎重に。慎重に。 「……好き、です。彼の曲は脳裏に情景が浮かんでくるというか、その、」 「わかります!」 台本の台詞を思い起こしていたら、朝倉さんはテーブルにバシンと両手をつき、思いっきり身を乗り出してきた。 その勢いに、思わず僕はビクリと身体を震わせる。 「音楽を聴いているのに映画を見ているかのように情景が浮かぶんですよ!私、初めて聞いた時は感動で震えました!」 「!……です、よね!そうですよね!」 か、と胸に湧き上がった感情に、僕は気がつけばテーブルに前のめりになり、朝倉さんと顔を突き合わせていた。 「あの、美鳥さんはどこから?」 「僕が初めて聴いたのはColorで、」 「私もです!」 朝倉さんの瞳が大きく見開かれ、輝いている。多分、僕も今同じような顔してる。 だって、だって、初めてだったから。 藍原君はもちろんsikiの曲を好きだと言っているけれど、櫻井君と幼なじみでデビュー前から知っているから、純粋なファンとは少し違うと思う。 母さんや弟の大和もCDは聴いているけど、それは僕が声を大にしてお勧めした結果であって。 純粋にsikiの曲に出会って、好きになった人に初めて会った! 「とにかく他の音楽とは違うんです!直接心を揺さぶられるというか、本当に、震えるくらい響くんです!この音を、見える景色を表現したいって思うんです!」 僕の言葉に朝倉さんはうんうんと頷いてくれた。わかってくれる。この人はsikiの良さをわかってくれてる。 気がつけば僕達は夢中でsikiの事を語り合っていた。 お気に入りの曲の話、映画の話。曲が使われたCMや催事の話。sikiの曲は沢山の人に愛されてる。わかっていたはずの事だけど、こうして身をもって実感したのは初めてかもしれなかった。 「あんなに素敵な曲を作るなんて、一体どんな人なんでしょうねぇ、sikiって。」 うっとりと目を細める朝倉さんに僕はぐっと口を噤んだ。 とっても、とっても教えてあげたい。すごく凄く素敵な人だって。 不器用だけど、優しくて。いつもは気を張って口元をへの字に曲げているのに、時折笑うその顔はドキリとするくらい柔らかくて。それから、クールに見えて、熱い感情をぶつけてくる人で…… 「美鳥さん、どうかされました?」 「へ?あ、……なんでもない、です。」 櫻井君の顔が脳裏に浮かんで。ついでに一昨日の熱を思い出して、気がつけば、かーっと顔が熱くなっていた。 そうだ、今朝のことがあってすっかり忘れてしまっていたけど、僕、ぼく…… 「美鳥さん、本当にsikiがお好きなんですね。」 「ぁ、…………はい。」 嬉しそうに話す朝倉さんに、僕は頷くことしか出来なかった。 sikiが、好き。それは彼の音楽を聴いた時からずっと僕の中にある感情。目の前でsikiの事を楽しそうに話す朝倉さんも、きっと同じような感情を持っているんだと思う。 でも、僕は知ってしまった。sikiが櫻井色だって。 知ってしまった。自分の内にある、もっと深くて熱くて切ない感情を。 「実はsikiさんにも今回取材をしているのですが、フィギュアスケートに非常に興味を示してらっしゃって。大会を見てみたいと仰ってたんですよ。」 本当は雑誌が発売されるまで秘密にしておかないといけないんですけどね、と小さな声でこっそりと教えてくれた朝倉さんに僕は思わずくすりと笑ってしまった。 知ってる。 大会に来てくれるって、僕のそばで観てくれるって約束してくれた。 それは叶わなくなってしまったけれど、それでも彼は本気でそう思ってくれていた優しい人だ。 「もし、御本人にお会い出来ることがあったらどうします?」 いつか対談を組ませて下さいと夢のような未来を語る朝倉さんに、けれど僕は頭を振った。 「sikiは僕にとって神様みたいな人なんです。だから……」 近づくことも恐れ多い。僕なんかが触れてはいけない。そう思っていたんだ、知ってしまう前までは。 「だから、まずは僕自身が胸を張ってsikiと向き合える人にならなきゃいけないんです。好きですって、自信を持って言えるように。」 sikiに。ううん、櫻井色君に。 「だから最後の大会、sikiの曲を今の僕にできる全てで表現したいんです。遠くにいる彼に、胸を張って報告できるように。」 最後と決めた演技を、最後の時にはと決めていた曲で。あの音に負けない、自分に出来る全てをぶつけて。 後悔なく演じきれたら、自信を持って伝えられるかな? まだまだ自分に自信が持てないけれど、頑張りたいですと照れながら伝えれば、向かいに座る朝倉さんは何故だかぽかんと口を開け、固まってしまっていた。 あれ?さっきまであんなに盛り上がってお話してたのに。 「え、……最後?」 薄く開いた唇から盛れた声に、今度は僕が固まる番だった。 とにかく盛り上がって、盛り上がりすぎて、僕はどうして朝倉さんとここにいるのかすっかり忘れてしまっていた。 「あの、……、その、」 あ。この状況は、あれだ。昨日藍原君と話していた……ヤバイ、って状況だ。 背中をつ、と冷たい汗が流れ落ちていく。 「み、美鳥さん……?」 「あ、えっと、……し、少々お待ちください。」 いまだ驚きに固まっている朝倉さんを前に、僕は結局約束した事をほとんど守れず、ごめんなさいと泣きながら藍原君に電話をかける事となってしまったのだった。

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