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第54話

欲望を吐き出してしまえば、冷えきっていたはずの心臓は急激に熱を取り戻していく。 打ちつけていた楔をずるりと引き抜いて、乱れた呼吸を整えようと息を吐けば、思考はようやく冷静さを取り戻し、見えていたはずの視界が鮮明に像を結び始める。 目の前に横たわる身体は生気を失い、まるで屍人のように投げ出されていた。 ぐちゃぐちゃのシーツを汚すのは白濁と白い肢から漏れる鮮血。 青臭い独特の匂いが充満する部屋に、嗚咽とともに弱々しい声が響く。 「……、めんなさい。ごめん、なさい…」 血の気のない青白い顔を自らの両手で覆い、美鳥はずっと謝罪の言葉を繰り返していた。 「美鳥……」 「っ、めんな、さいっ、……」 泣き叫び、嬌声を上げ続けたせいで声は掠れてしまっている。それでも、美鳥は必死に謝り続けていた。 壊れてしまったみたいに、何度も、何度も。 じわりと視界が滲む。 「美鳥、」 震えるその肩に触れれば、びくりと身体が跳ね、指の隙間から恐怖に怯える亜麻色が覗く。 明らかな拒絶だった。世界が、絶望の音を立てて崩れていく。 俺の瞳からこぼれ落ちた雫が、生気のない頬を濡らした。 「……っ、めん……ごめん、っ、」 何を言っても、何をしても、到底許されることじゃない。 それでも何かを言わないと、何かをしないと、美鳥が壊れて消えてしまう。あの穏やかな笑みが二度と戻ってこなくなる。 どうしたらいい。 腕を切り落とせっていうならそうする。命を差し出せと言われても従う。 美鳥が笑ってくれるならなんだって。 だから、頼むから、美鳥を助けてくれ。 誰か、 「……なに、してんの。」 ふいに聞こえた声に、弾かれたように顔を上げていた。 いつの間にか部屋のドアが開かれ、そこには呆然と立ち尽くす晃の姿があった。 なんで、ここに。 互いに状況が理解出来ずに室内は時を止める。 先に動いたのは晃だった。 驚きに見開かれた大きな瞳は室内の惨状を目にして無言のままに状況を把握したらしい。 その瞳が、ぎ、と俺を睨みつける。 「美鳥君から離れろ。」 怒気を孕んだ声に、従うしかなかった。 ベッドから降りた俺に替わり、晃は美鳥に駆け寄りその顔を覗き込む。 「美鳥君、わかる?大丈夫?」 「……い、はら、くん…」 晃の手が頬を撫ぜれば、美鳥の身体はびくりと跳ね、カタカタと震えた。 「大丈夫。大丈夫だからね。」 晃は子供をあやす様にゆっくりと頭を撫で続けた。 大丈夫。大丈夫。優しくそう繰り返し、錯乱している美鳥が落ち着くまでただひたすらに。 恐怖に強ばり震える身体はいつしか弛緩していき、震える吐息が穏やかな寝息に変わるのにそう時間はかからなかった。 気を失うように眠りに落ちていった美鳥の寝顔を確認し、晃はゆっくりとその場に立ち上がりこちらを振り返る。 握りしめた拳は小さく震えていた。 「どんな理由があろうと、許される事じゃないよ。」 「……わかってる。」 それだけの事をした。許されたいなんて思わない。真っ直ぐに晃を見つめそう呟けば、目の前の大きな瞳はじわりと滲む。 「っ、……出てけよ。」 ぽすん、と握られた晃の拳が俺の胸を叩く。ぐっと押し付けられた手の中には黒猫のキーホルダーがついた鍵があった。おそらくは晃の部屋の鍵だろう。 黙ってそれを受け取った。 「…………美鳥君には、僕がついてるから。」 「……たのむ。」 俺が言えた言葉じゃないのはわかっているけど。それでも、今の俺は何かに縋ることしか出来ないから。 ごめん。 震える声でその一言を絞り出して、ベッドに横たわる寝顔を一瞥する。 それ以上何も言えず、何も出来ず。俺はただ黙って部屋を後にした。

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