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閑話 お人好し二人の秘めたる話
「っぅ、……」
パサリとシーツ擦れる音と掠れた声が聞こえて、僕は手にしていたドラッグストアの袋から反射的に顔を上げ、ベッドへと視線を移す。
「……ここ、…は、」
「気がついた?」
覗き込めば、亜麻色の瞳がぼんやりと天井を見上げていた。
まだ意識が覚醒していないんだろう。僕の事も見えているのかいないのか、真上を見つめる瞳は数度瞬いて、それからようやく僕と目が合った。
「!?っ、」
意識が覚醒して身を起こそうとしたんだろうけど、美鳥 君は僅かに身体に走ったのだろう激痛に腰を押さえて身をよじっただけだった。
「無理しちゃダメだよ。寝てなさい。」
めっ、てあえて明るく言って、その背中をさすってやる。
触れた瞬間びくりと身をすくませたけど、美鳥君はそのまま僕に身を任せてくれた。
「……あの、ここ、」
「うん、美鳥君の部屋。隣はさ、ほら、ゆっくり休める状況じゃなかったら。」
今は何も考えず身体の回復を最優先させるべきだと、僕はあえて詳しい話をせず乱れた布団をかけ直した。
それでも、美鳥君の視線は壁の向こうへ向けられる。
「あの、……櫻井君、は?」
「あいつなら僕の部屋にいるよ。」
追い出してやったから大丈夫。もう怖い事はないよって安心させるつもりで言ったのだけど、美鳥君は急に顔色を変え、力の入らない身体で無理やり起き上がろうともがく。
あわててその身体を押さえた。
「寝てなきゃダメ…」
「っ、謝らなきゃ、」
掠れた声で紡がれたのは意外な言葉だった。
「酷い事、言っちゃったんだ。……傷つけ、ちゃったんだ、」
責めるでもなく、罵るでもなく、美鳥君は本気で色 の事を心配していた。
「……理由はどうだろうと、あいつのした事は犯罪だよ。あいつは加害者で、美鳥君は被害者…」
「違う!」
今にも泣きそうな大声が、僕の言葉を遮った。
僕の服の裾を掴み、その瞳が必死に訴えてくる。
「櫻井君は悪くない。全部、全部僕が悪いんだ。……僕が、櫻井君を傷つけたから、」
「美鳥君……」
正直、その言葉にほっとしている自分がいた。
美鳥君が望めば、色は退学にも、警察沙汰になる可能性だってあった。
でも、この人は色を守ろうとしてくれている。身体は恐怖に震えていたのに、こんなにも傷つけられたのに、それでも色を思って守ろうとしてくれている。
「……大丈夫。大丈夫だよ。」
この二人は、まだ大丈夫だ。完全に壊れてしまったわけじゃない。元に戻れるかもしれない。
「まずは自分の身体の事だけ考えて。お互い時間置いて、冷静に話せるようになってから話そう。」
大丈夫だからと繰り返しながら笑ってそう言えば、美鳥君は頷いてくれた。
色々と最悪の事態まで考えてはいたけれど、どうやらそれを思って泣くことはもうしなくてよさそうだ。
僕はふぅ、と息を吐き、先程床に放り出していたドラッグストアのレジ袋を手にとった。中身を取り出し、頼んだ品物で間違いないか一応パッケージを確認してから箱を開封する。
さて、どうしたものか。多分、美鳥君にはストレートに言った方がいいかな。
僕は軟膏片手に再び美鳥君の顔を覗き込む。
「美鳥君、えっとね。薬、塗らせて欲しいんだけど。」
どこに、とは言わずとも美鳥君は察してくれたらしい。その顔が一瞬にして赤く染まった。
「あ、あのっ、自分で出来るから。」
口元まで布団で隠されて、こちらは苦笑いするしかない。
まぁ、そう言うよね。
眠っている間に全てを終わらせてあげたかったけど、身体を清めて部屋に運んであげるまでが限界だった。
恥ずかしいのはわかる。僕だって他人にそんな事されるのは嫌だ。
だけど、こればっかりは譲れない。僕がついてるって約束したんだ。これ以上、苦しい思いは絶対にさせたくない。
僕はふぅっと長い息を吐いて、美鳥君が横たわるベッドの縁に腰を下ろした。
「……ねぇ、少しだけ僕の話させて?」
ほんの少し首を傾け、にこりと笑って。それから僕は美鳥君にわざと背を向けた。
「あのね、僕の恋愛対象は同性なんだけど、初めての相手はね、中学の時の家庭教師のオニイサンだった。」
突拍子もない話に、顔が見えなくても美鳥君が困惑しているのがわかった。
「これがさぁ、親がいない時を狙ってほとんど無理やりやられちゃってさ。でね、僕はそれを誰にも言わずにいたんたけど……まぁ、酷い事になっちゃって。」
馬鹿だよねぇって笑い飛ばしたけど、背後で美鳥君が息を詰める。
「少し我慢すればすぐ治るだろって思ってたのに、高熱出ちゃうし傷口は化膿しちゃっ…」
「っ、もういいよっ!」
ぐっ、と服の裾を引かれた。
振り返ればそこには目に涙をため、耐えられないと首を振る美鳥君の姿があった。
「もうっ、わかったから。もう、辛いこと、思い出さなくていいからっ、」
美鳥君は本当に優しい人だ。
僕以上に苦しそうな顔をするこの人を助けてあげたいって思う。他人の事を自分の事のように苦しんじゃう人だから、せめて自分自身はこれ以上苦しむことがないように。
「同じ思いはしてほしくないんだ。だから、ちゃんと手当させて?」
今度はちゃんと頷いてくれた。
僕は床に転がっていたレジ袋の中から薄手のゴム手袋の箱を取り出して一枚を右手につける。ごめんね、って一声かけてから布団を捲った。
下衣をずらし、大変に申し訳ないけど傷口をしっかりと確認して薬を塗り込んでいく。美鳥君は自らの顔を押え、羞恥と痛みに必死に耐えていた。
「……藍原君…ごめんね。」
掠れた声に、僕は気にするなって笑ってみせる。
「友達の事心配するのは当然っしょ?謝らなくていいんだよ。」
「それもだけど、……そうじゃなくて、」
全てを終えて布団をかけ直してその顔を覗き込めば、美鳥君は自らの顔を押えたまま静かに泣いていた。
まだ情緒不安定なんだろう。ぽろぽろ涙をこぼしながらその場に身を起こそうとするのを僕も手伝って、大丈夫だよってその肩を支えながら僕は美鳥君の言葉を待つ。
「……ごめん、なさい。…………僕も、櫻井君のこと……好き、なんだ。」
涙と共にこぼれた言葉は、ぎゅっと僕の心臓を握りつぶした。
「……、んで、そこで謝っちゃうかな。」
目頭が熱くなって、視界が滲む。
この状況で、自分自身が傷ついている のに。
それなのに、僕を気づかって泣くなんて。
「っ、……かなわないなぁ。」
ごめんなさいと肩を震わせる美鳥君を、僕はぎゅっと抱きしめた。
「大丈夫、知ってたよ。ちゃんとわかってるから。わかってて、応援してるんだから。」
僕の内にいまだ残って胸を締め付けてくる感情なんてどうでもいい。
全部捨てる。全部あげる。
だから、お願いだから、この二人を壊さないで。僕から奪わないで。
僕はいもしない神様にそう願わずにはいられなかった。
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