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第55話 弾くことの意味

美鳥は俺を拒絶するどころか全て自分が悪いのだと言いはっている。 晃の部屋にいる俺の元を訪ねてきた木崎の口から聞かされたのは、にわかには信じられないものだった。 「お前に酷いことしたって、謝りたいってずっと言い続けてたそうだ。」 ベッドに座り何をするでもなくぼんやりとしていた俺の所に木崎が来たのはいつの事だっただろう。 時間の感覚がない。自分がどれだけここにこうしていたのか記憶が曖昧だ。 ただ、視界の隅に窓の外の漆黒が映って、多分深夜なんだろうなと働かない頭で思った。 俯く俺に木崎の視線が突き刺さる。 「美鳥の体調は数日すりゃ良くなる。だからお前は予定通り実家に戻って、きちんと仕事してこいって藍原(あいはら)から伝言だ。美鳥が何よりそれを望んでるとさ。」 「……いいのかよ、それで。」 「いいも何も、俺は何も見てないし、知らないんでな。」 どう考えたって、誰が見たって許される事じゃない。 何を言われても受け入れると覚悟も決めていたのに。どうして、誰一人俺を責めないんだ。無かったことになんて出来るはずないのに。 「残念だったな。」 場違いな言葉に思わず顔を上げる。 感情の見えない視線が、静かに俺を射抜いた。 「許しを乞おうにも、誰もお前を責めちゃいない。自責の念は消えねぇのに、お前がそれを晴らす事は許されねぇんだよ。」 視線と言葉が胸に突き刺さる。 「一生背負い続けろ。それがお前にできる唯一の事だ。」 それは、木崎が与えてくれた罰なんだろう。償う事すら許されず、己の罪を罪とすら認めてもらえない俺への罰。 「……わかった。」 それが唯一というのなら背負うだけだ。もとより忘れるつもりなんてないんだから。 俺は、俺自身のした事を一生許さない。心臓の奥にしっかりと傷を刻み込む。 「……あんまり思い詰めんなよ。お前もちゃんと寝ろ。」 最後にほんの少しだけ優しい声音でそう言い残して、木崎は部屋を後にした。それをぼんやりと見送って、視線はまた下へと落ちる。 寝ろと言われても、眠れるわけがない。目を閉じてしまえば、脳裏にあの時の光景が浮かんでしまう。 泣き叫び、恐怖に怯える姿がどうしても消えてくれなくて。 俺は何も出来ないまま、ただぼんやりと朝がくるのを待つしかなかった。 朝日が姿を現し、空が明るく色を変え始めた頃。俺は自分の部屋の玄関の前にいた。鍵を持っていなかったので一瞬躊躇したが、もしかしてとドアノブを回せば玄関はあっさりと開いた。 音を立てないようゆっくりと戸を開き中へと入れば、シューズボックスの脇に俺のスーツケースとヴァイオリンケースが立てかけてあった。スーツケースの取っ手をハンガー代わりにご丁寧に俺のサマージャケットまでかけられているのはさすが(あきら)としか言いようがない。あいつはもう冷静さを取り戻しているんだろう。 ジャケットを羽織り、荷物を持ち出そうとして、俺はスーツケースの上に封筒が置かれていることに気がつき手に取った。 なるほど、昨日晃が俺の部屋を訪れた理由はこれか。 封筒にHappy weddingと書かれたその中身は、おそらくメッセージカード。あいつにとっても緑は幼なじみだ。式に行けない代わりに渡しておけという事なんだろう。俺はそれをスーツケースにしまい込んだ。 念の為荷物を再確認してケースを閉じ、立てかけてあったヴァイオリンケースを肩にかける。 そのまま黙って外へ出ようと玄関のドアノブに手をかけたのだが、 カチャリ 背後で部屋のドアが開かれる音がして、俺は反射的に美鳥の部屋の方を振り返った。思わずゴクリと息を飲む。 なるべく音を立てないようにとゆっくりと開かれたドアから姿を現したのは、晃だった。 知らず緊張に強ばっていた身体が弛緩する。 「……おはよ。」 美鳥を起こさぬようゆっくりとドアを閉めてから、晃は俺の顔を一瞥し苦笑した。 多分、酷い顔をしてるんだろう。晃の目の下にはくっきりと隈が浮かんでいたから、おそらくは俺も似たような顔をしてるに違いない。 「もう行くの?」 「ああ。……行っていいならな。」 あんな事をしておいて、美鳥に何の謝罪も償いもなくここを出るなんて、本当に許されることなんだろうか。 拭えない罪悪感に今朝本当にここに来ていいのか悩んだ。それでも、それが美鳥の望みだという木崎の言葉に従ってここにいる。それが正しいのか、俺にはわからなかった。 「仕事キャンセルなんて事になったらそれこそ美鳥君は気に病むよ。」 「……そうかも、しれないな。」 できるなら会って謝りたかったけど、晃はそんな俺の思考を読んだかのように首を横に振った。 「まだ、会わせる訳にはいかないよ。」 チラリと背後、美鳥の部屋を省みてから晃はまた視線を俺へと戻した。 「少し熱も出てるし、それに……うなされてるんだ。ごめんなさい、もうやめてって。」 決して俺を責めるような口調ではない。ただ事実を淡々と述べただけの言葉は、けれど俺の胸をえぐる。 「自分が悪い、謝りたいって言葉も本当なんだと思う。でも怖いって、拒絶の気持ちも本当なんだよ。心の整理がつくまで会うべきじゃないと思う。」 何も反論できなかった。 俺の存在が美鳥の傷を広げる事になりかねない。今の美鳥に必要なのは休息の時間と、あいつに寄り添ってくれる俺以外の誰かの存在だ。 ここに残って、俺に出来ることは何もない。 俺はズボンのポケットに入れていたものを引っ張り出した。 黒猫のキーホルダーの付いた部屋の鍵を晃へ返却する。 「……あとを頼む。」 晃は無言で頷いた。 俺は視界の隅に美鳥の部屋を捉えながら、肩にかけていたヴァイオリンを背負い直す。 もう俺の音すら聴いてくれないかもしれないけど、それでも今の俺に出来るのは弾くことだけだから。 「ちゃんと全部終わらせて……帰ってきなよ?」 晃の言葉に頷いてから、俺は黙って部屋を後にした。

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