67 / 92

第56話

「明日は十時より楽団とのリハーサルになります。その前に黒澤…寛人(ひろと)さんと、流れ等の打ち合わせになりますので、明日は九時にはお迎えにあがりますね。」 「……ああ、わかった。」 「それから、本日中に監督からのメールに目を通しておいていただきたいです。曲の差し替えについてと、あとは出来るなら録音に立ち会いたいとの事なので、確認の上対応を明日中にご判断下さい。」 「……確認しとく。」 移動中の車内で、いつものように(すい)さんが予定を説明するのをぼんやりと聞いていた。窓の外、流れていく景色を意味もなく眺めるだけ。ここ数日、気がつけば意識はどこか遠くにあって、時間だけが経過している。 今日は何をしたんだったか。黒澤…海音(かいと)さんと下見を兼ねてホールで打ち合わせとピアノのチェックをしたような気がするけど……ピアノ、弾いたっけ。 話もしっかりして、問題なく終わったはず、だけど。意識はハッキリしていたはずなのに記憶にない。 「……リハ、延期しますか?」 信号待ちでふいに彗さんにそう言われても、俺は一瞬その意味を理解できなかった。身体を通り抜けていった言葉の意味が数秒後にようやくわかって、俺は窓の外の景色から彗さんへと視線を移す。 黒縁の眼鏡の奥で、黒目がちの瞳が心配そうに俺を見ていた。 「(しき)さん、お疲れなのでは?」 「……ん、大丈夫。」 平気だって、笑ったつもりだったけど、彗さんの眉間のしわはますます深くなる。 何か言いたげにうっすらと唇が開くが、信号が変わり彗さんは再び前を向き車を発信させる。俺もまた窓の外へと視線を戻した。 俺、いつもどんな顔してたっけ。 結局それ以上会話はなく、彗さんの運転する車はいつものように自宅前で停車した。 「ありがとう。じゃあ、明日もよろしく。」 「あ、ちょっと待ってください。」 いつものように声をかけて車を降りようとしたのだけれど、彗さんがシートベルトを外し、後部座席に身を乗り出してそこにあった紙袋を差し出してきた。 「明日演奏するKオーケストラに関する資料と、オケの方に曲のイメージを掴んでもらうためにお渡ししている映画の資料です。それから、以前取材を受けていた雑誌が発売されましたので一緒に入れています。」 よろしければ御一読くださいと渡されたそれを、俺は黙って受け取った。 「あの、……本当に、無理しないで下さいね。」 資料をまとめてくれたことも、俺の心配をしてくれていることもわかっているのに、言葉が上手く出てこない。 「……えっと、ありがとう。」 気の利いた言葉一つ言えないまま、俺は何とか口角を上げて心配に眉を寄せる彗さんを見送った。 車が見えなくなってから、ふぅ、と息を吐き出す。 明日のリハに備えて、準備をしないと。そう思うのに、身体は思うように動かない。紙袋を持った右手がずしりと重かった。 おかえりなさいと出迎えてくれたハルさんに夕食まで部屋にいると告げて、そのまま二階の自室に籠る。 楽譜の入った鞄はベッドに放り投げ、手にしていた紙袋は足元に置いてピアノの前に座った。 蓋を開いて鍵盤を見下ろす。 白と黒の世界を前にして、俺の指は動かなかった。 いつもどうやって弾いてたっけ。 何を思って、どんな風に。 そもそも俺は何でピアノを弾いていたんだっけ。 彩華(さいか)を離れて一週間。弾かなくてはと思えば思うほど頭は真っ白になっていき、わかっていたはずの事がわからなくなっていく。 指を下ろせば音は鳴る。楽譜通りに指を動かせば、音楽が聞こえる。 でも、そこにあったはずの大事なものが、ごっそりと抜け落ちている気がした。 弾かなきゃ。俺にはそれくらいしか出来ることがないのに。弾くことすら出来なくなってしまったら、俺は何の価値もなくなってしまう。 わかっているのに、どうしたらいいかわからない。 心臓が止まって、俺の思考も感情も何もかもが動きを止めてしまったみたいだ。 モノクロの世界を前に、何をすることもできず、時すらも止まってしまった。 そんな全てが凍りついた空間で突如動いたのは、ズボンのポケットに入れたままになっていたスマートフォンだった。 小さく振動し、その僅かな音と共に着信を知らせるそれを、ポケットから抜き取る。 画面を開けばそこには(あきら)からのメールが届いていた。 Happy birthday。タイトルにそう書かれたメールを開けば、そこには「本人には内緒ね」という意味不明な一文と共に何かが添付されていた。 それが何であるのか考えることすら億劫で、何も考えずアイコンをタップすれば、動画が流れ始める。 それは、見慣れた風景。第二音楽室の入口だった。 僅かに開いた入口の隙間から、ピアノの音が聴こえる。 誰かが弾いてる。でも、誰が。 映像はゆっくりと入口に近づき、そうして隙間からそっと中の様子を映した。 ポーンと、一音一音確かめるようにゆっくりと音を響かせていく。その後ろ姿に俺は息を飲んだ。 時折指を止めて恐る恐る鍵盤を押すたび、後ろで束ねられた亜麻色の髪が小さく揺れる。 ピンと伸びた背筋。華奢な身体に、色白の肌。なにより、演奏しているこの曲は、 「みどり……」 リズムも強弱もめちゃくちゃ。そもそも曲と呼べるのかすら怪しい稚拙な演奏。 それは、美鳥飛鳥の奏でるMidoriだった。

ともだちにシェアしよう!