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第57話

止まりかけのオルゴールみたいにぎこちない音が響く。 指が動かず時折手が止まるから、リズムなんてあったもんじゃない。ミスタッチも多く、注意深く聴かなければ何の曲を弾いているのかすらわからない。 それでも、自信なく震える音はゆっくり、ゆっくり、Midoriを形作っていく。 稚拙な音だ。 けれど、その音の一つ一つが身体の奥に染み込むように入ってきて、心臓の内側から身体を揺さぶる。 奥底からこみ上がってくるもので、視界が震えて滲んだ。 ただ指を動かしているわけじゃない。一音一音大事に弾いているのがわかる。この曲が美鳥にとってどれだけ大切なものなのか、震える音から伝わってくる。 つ、と目からこぼれおちたものが、スマホの画面にぽたりと落ちた。 最後の一音を響かせてそろりと鍵盤から指が離れていく。画面に映る背中が、ほっと弛緩したように見えたのだが、その瞬間画面が大きくブレて暗転し、動画はそこで終了した。 呼吸の仕方が思い出せない。 スマホが沈黙して室内が静まり返っても、しばらく金縛りにあったみたいに動けなかった。 衝撃が抜けきれず、力なくだらりと落ちた腕からスマホが滑り落ちる。ガサリと音がして、視線を足元へと向ければ落下したスマホは足元に置いていた紙袋の中に入り込んでいた。 視界に映ったその袋に、別れ際に彗さんが言っていたことが思い出される。 そうだ、たしか。 紙袋に手を伸ばし、俺はそこに入っていた一冊の雑誌を手に取った。 月間ピアニッシモ。俺と……美鳥も取材を受けたという雑誌。ご丁寧に貼られていた付箋のページを開けば、畔倉アイスアリーナで滑る美鳥の写真が目に飛び込んできた。 選手達の音楽へかける思い。 そう見出しのついたそのページには、美鳥のsikiに対する想いが綴られていた。 初めて曲を聴いた時の衝撃。その音楽をどうしても自分で表現してみたいと思った事。 そして、 ――まずは僕自身が胸を張ってsikiと向き合える人にならなきゃいけないんです。好きですって、いつか自信を持って本人に言えるように。 そこに記されていた想いに、とくりと心臓が跳ねる。 目を閉じて、一呼吸。 ゆっくりと瞼を開けば、さっきまでとはまるで違った景色が広がっていた。 雑誌は譜面台に置き、俺は鍵盤に指を滑らせる。ぴん、と澄んだ音が鼓膜を震わせた。 弾きたい。とにかく弾きたい。 もしかしたら、もう隣に立つことは許されないかもしれない。 だけど、あいつが好きだと言ってくれた音は、大切に思ってくれている旋律だけは、あいつに届けたい。 あの演技に負けない音楽を、自分に出来る全てをぶつけて。 そしていつか…… 稚拙な音を思い起こしながら、俺の指はMidoriの旋律を奏でていく。 たった一曲。その短い時間に全てを込め、表現しようとしている人間がいる。 俺はそれに応えたい。 そしていつか、 ちらりと視界に映った雑誌。 緊張して少しぎこちない笑顔を浮かべる美鳥を視界の端に捉えながら、俺は自らが回答した言葉を思い出していた。 ――自分の曲を自らの表現に使ってくれる人がいる。 いつか、そんな人の為に曲を書いてみたいですね。 今はまだ、あいつに見合う音が見つからないけど。いつかは。 ぎこちない笑顔を前に、気がつけば俺は口の端に笑みを浮かべていた。

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