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閑話 for……

誰もいない音楽室。いつもは練習を終えてこの第二音楽室に寄り道すれば、綺麗な音色が聞こえていた。 黙々とピアノに向かうその後ろ姿をこっそり眺めながらその音を聴くのが好きで、気がつけばここに寄り道するのが日課になっていた。 今日は誰もいないとわかっていて、それでも何となく足を運んで。わかっていたけれど、しん、と静まり返った音楽室に寂しい気持ちになる。 櫻井君が、いない。 あの音が、聴けない。 気がつけば、僕は鍵盤に手を伸ばしていた。 あの人みたいには出来ないけど、あの後ろ姿を思い出しながらゆっくり、ゆっくり鍵盤を押して、大好きな曲を奏でていく。 櫻井君が聞いたら、きっと下手くそって怒られちゃうような音。それでもなんとか最後まで弾ききって僕はほっと指を離したのだけれど、 パチパチパチ 突然誰もいないはずの音楽室に拍手の音が響いて、反射的に背後を振り返った。 「あ、藍原君っ!?」 いつの間にそこにいたんだろう。藍原君はパチパチと拍手しながら、僕とピアノとを交互に見つめていた。 「帰りが遅いから探しに来たんだけど、ビックリした。ピアノ弾けたんだね。」 「あ、いや、その。……祖母のバレエ教室にピアノ置いてあって、少しだけ練習を。」 実はこの一曲しか弾けないんだけどと正直に告げれば、藍原君は美鳥君らしいなと笑う。その瞳が、優しく細められた。 「なんで急にピアノなんて弾いてたの?」 どう答えていいのか言葉につまって、僕は視線を鍵盤へと落とした。 このピアノが音を奏でなくなって一週間。その間、ずっと考えていた事がある。向き合わなきゃって、思っていた事がある。 「……弾いたらわかるかなって。櫻井君の、気持ち。」 いつもどんな思いで、櫻井君はピアノを弾いていたんだろう。どんな思いでMidoriを弾いていたんだろう。 僕はピアノの脚元においていたボディーバックから、一枚のCDを取り出した。 透明なプラスチックケースに入った一枚のCD。真っ白な表面に櫻井君の字でMidoriのタイトルが記されている。 「櫻井君は、ずっと緑さんのことを好きなんだって思ってた。だって、Midoriを聴くたびに胸が苦しくなるから。想いが伝わってくるから。でも……」 このCDを貰った日のことが脳裏に浮かぶ。 Midoriという曲は、僕の中で思い入れのある曲だった。初めて聴いたsikiの曲。誰かを想う櫻井君の音に、苦しく切なくなる曲。 けれどあの日、櫻井君から貰ったこのCDは、このMidoriは、今まで以上にMidoriという曲を特別な一曲にしてくれた。 「……今度のフリープログラムの為だけに、櫻井君Midoriを弾き直してくれたんだ。同じ曲なのに、今までのMidoriと全然違ってた。すごく、すごく、強い想いを感じたんだ。」 誰かを想って作られた曲。 遠くから誰かを見つめ、切なく苦しく愛しい想いを抱え、共にありたいと願う、曲。だったはずなんだ。 だけど、新しいMidoriは違う。 もっともっと激しい想いがそこにはあった。 全てが欲しいと渇望し、身を焦がすような強い想い。そんな激しさを感じるのに、その根底には深い優しさと愛しさがある。 誰かを想って弾いた曲。 それは、一体誰の為に。何を思って。 「新しいMidoriは、誰の為に弾いたのかちゃんと分かってる?」 藍原君の問いに僕は一瞬躊躇って、それでも頷いた。 本当はわかっていた。でも、そんなわけないって自分に自信が持てずに目を背けていた。 その結果、彼を傷つけてしまったんだ。 手にしたケースに視線を落とす。 透明なプラスチックケースに入った一枚のCD。真っ白な表面に櫻井君の字でMidoriのタイトルと……そして、その下には for Asuka 彼の少し癖のある字でしっかりとそう記されていた。 こんなにも真っ直ぐな想いを貰っていたのに、僕はそれを踏みにじったんだ。 どうすれば許してもらえるだろう。僕には答えが見つからない。 「……美鳥君。」 俯く僕の肩に、ぽん、と藍原君の手が乗せられ、顔を覗き込まれた。 「ねぇ、色はどんな思いでそれを弾いたと思う?何のために、わざわざ弾き直したんだと思う?」 その言葉にはっと顔を上げる。 何の、ために。 そうだ。これは、櫻井君が僕の表現のために弾いてくれた曲だ。フリープログラムの為だけに弾き直してくれた曲だ。 僕の反応に、藍原君はうんうんと頷いた。 「その想いまで気づかなかったフリしちゃダメだよ。」 櫻井君を傷つけた。それは、どうすれば許してもらえるかなんてわからない。 でもその前に。彼に会うその前に、僕にはやらなきゃいけないことがある。 たった一度の演技。その短い時間の為にこんなにも強い想いを込めて弾いてくれた。僕はこのMidoriに込められた想いに応えたい。 この音に負けない演技を、自分に出来る全てをぶつけて。 隣で優しく僕を見つめる藍原君に小さく頷いて、僕は想いの詰まったCDをぎゅっと胸に抱きしめた。

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