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第58話 442Hz
もうすぐ着きます。彗 さんからのメッセージを確認して、俺はピアノの蓋を閉めた。
姿見の前でジャケットを羽織り、鏡に映る瞼の開ききっていない顔をパシンと軽く叩く。
そうして胸ポケットに五線紙のメモ帳と、深緑のペンを挿してから床に置いていた鞄を肩にかけた。
がらにもなく少し緊張しているらしい。
いつもより速いテンポを刻む心音を、深く息を吐いて落ち着けてから俺は部屋のドアを開け、
「ぬぁぁっ!」
そこにぬぼっと立っていた存在に思いっきり驚き声を上げていた。
し、心臓が止まった。
気配が全くなかったぞ。朝からなんで自分の父親に心臓止められそうになってんだ俺は。
地方公演を終えて昨日遅くに帰ってきたなとは思っていたが、どうやらまだ半分寝ているらしい。夢遊病……じゃ、ないよな?
パジャマ姿でボサボサの髪のまま何故か俺の部屋の前に立ち尽くしていた父親に、俺は恐る恐る声をかける。
「……なに?」
半開きの目がじ、と俺を見つめた。
「もう行くのか?」
「あ、ああ。」
答えはしたものの、聞いているのかいないのか。返事の代わりに、親父は手にしていた物を俺の前に差し出してきた。
「……持っていけ。」
押し付けられた小さな箱を仕方なく受け取り確認すれば、
「……胃薬?」
何故。寝ぼけてんのか?
持っていけと再度言われてとりあえず俺はそれをジャケットのポケットにしまい込んだ。
これ以上親父の相手をしていたら間違いなく遅刻する。
ありがとうと適当に受け流してから、俺は急いで玄関への階段を駆け下りた。
「監督の見学は一人で来るのなら俺としては構わない。差し替えの曲が気になってるらしいから、最終の三日目にどうかって確認しておいて欲しい。」
「わかりました。」
「その時は音響ブースに居てもらうことになるだろうから、」
「そうですね。黒澤海音 さんに確認しておきますね。」
移動中の車内で彗さんとのミーティング。と言っても今日は都内の貸スタジオでのリハーサルだ。自宅からさほど離れていないので、スケジュールの確認といくつか会話を交わせばあっという間に目的地に到着した。
「……なんだか、私の方が緊張してきました。」
車を降り、その場に立ち止まってしまった彗さんの背中を俺は軽く叩く。
「リハ、延期する?」
あえて昨日彗さんにかけられた言葉を返してやれば、彗さんはくすりと笑う。
「まさか。せっかく色さんが調子を取り戻して下さったんですから、私はどこまでもついて行くだけです。」
色々と初めてづくしで緊張しているのは俺だけではなかったらしい。いまだ少し表情の硬い彗さんに俺は逆に少しだけほっとした。
「行くか。」
「はい。」
無意識のうちに胸ポケットに手を伸ばし、そこに挿していたペンに触れる。
俺は俺に出来ることを、全力で。
短く息を吐き、俺は歩き出していた。
「色君、久しぶり!大きくなったなぁ。」
控え室のドアをくぐったその瞬間、俺を見て懐かしそうに目を細めたその人に、俺もお久しぶりですと頭を下げた。
黒澤寛人 さん。親父の古い友人であり、音響で世話になっている黒澤海音さんの父親。そしてKオーケストラの創設者でありコンサートマスターであるこの人は、還暦近いはずなのだけれど背筋はしゃんと伸びていて、若々しさすら感じる。当時小学生だった俺の記憶の中のその人と、変わったのはシワの数くらいだろう。
スタジオの隣にある小さな控え室に、黒澤さんの笑い声が響く。
「まさか君がsikiだったとは。いやぁ、誠一 から聞いた時はビックリしたよ。君の曲は子供向けの公演の時には必ずと言っていいほど弾かせてもらってる。」
まさか自分達が次回作の音楽をやらせてもらえるなんて思ってもみなかったと、笑いながら俺の両肩をぽんぽんと軽く叩くその笑顔は、どことなく海音さんを思い出させた。
「オケとやるのは初めてだって?」
「はい。……あまり、人前に顔を出したくなかったので。」
「まぁ、父親がアレじゃなぁ。」
世界的に有名な指揮者をアレ呼ばわりできるなんてこの人くらいだろう。よく親父と酒の席で語り合いぶつかり合っている姿を目にしていた。
あの親父が認めた人物。ヴァイオリンの腕前は俺もよく知っている。何度も見てきた親父のステージ。この人はその中心にいた人だ。
「初めてだろうがあいつの息子だろうが、やるからには楽団の代表として色々口出しさせてもらうぞ。」
「もちろんです。よろしくお願いします。」
優しく笑うその人に、俺は深々と頭を下げた。
そうして挨拶もそこそこに彗さんを交え三人で流れを確認した。……というより、オーケストラの基本的な練習、リハのやり方、流れを黒澤さんから教わったと言った方が正しいかもしれない。親父の話や実際に練習風景を見学させてもらった事はあるが、それでも知らない事は多い。今後の為にと彗さんは俺の隣で終始メモをとっていて、打ち合わせというより勉強会に近い話し合いはあっという間に終了の時間を迎えた。
「さて、そろそろ行くか。」
黒澤さんの言葉に俺達は席を立つ。
隣のスタジオでは既に皆が準備を終えて俺達を待っているはずだ。
「sikiの事については皆はまだ何も知らない。君の素性や若さに否定的な意見を持つ人間も中にはいるだろうから、先入観を持たせないためにあえて話をしなかった。」
黒澤さんの言葉に、俺はぎゅっと拳を握りしめる。
「……覚悟はしてます。」
「スタジオに入ったら直ぐにリハに入ろう。否定の言葉が出る前に、実力でねじ伏せろ。」
無理難題を言ってくれる。
Kオーケストラを構成する楽団員の大半は日本最高峰のH響出身者だ。
黒澤さんのように後進に道を譲る為退団した者。大きなホールだけでなく、ボランティアや子供達向けの公演など、もっと自由な場所での演奏を望んだ者。そんな人達が集まり、純粋に音楽を楽しみつつ若い才能を育てる場所として黒澤さんを中心として結成されたのがKオーケストラだ。
そんな耳も実力も一流の人達を黙らせろってのか。
けれど、俺に選択肢なんてなかった。
「……わかりました。」
相手が誰であろうとやる事は変わらない。自分に出来る最高の音を出すだけだ。
前を行く黒澤さんの背中をぎ、と見つめ、俺は……キリキリと痛みを訴え始めた胃をこっそりとさすった。
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