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第59話

黒澤さんの後に続いてスタジオのドアをくぐった瞬間、そこにいた皆の視線が俺に注がれたのがわかった。 雑談や譜読み、バラバラに過ごしていた団員達がピタリと口をつぐみ、動きを止め、一斉にスタジオの隅へと注目する。 驚愕、興味、好奇、不審、様々な視線が俺を見つめていた。 「あえて詳しく紹介はしない。彼のことについては一切口外しないように頼む。」 黒澤さんの言葉にざわついた室内で俺は軽く頭を下げた。 「sikiです。よろしくお願いします。」 はじめまして、とは言わなかった。 向けられる視線を一瞥すれば、予想通りその大半に見覚えがある。親父に連れられ、楽屋やステージで顔を合わせていた人達だ。 俺が誰であるのか、向こうも気づいているだろう。 「さて、時間もないしさっそく合わせていこうか。」 皆一様に何か言いたげな顔はしていたが、黒澤さんの一言にスタジオ内はしんと静まり返る。 早く始めてしまえと黒澤さんに視線で促されたのだが、スタジオ内を見回して俺は思わず苦笑する。 「……やっぱり、この配置なんですね。」 ポツリと漏れたボヤキは、しっかりと黒澤さんの耳に届いたらしい。 当たり前だろう、と笑いながら思いっきり背中を叩かれた。 扇形に展開するオーケストラの中心に、向かい合うようにして置かれているグランドピアノ。本来ならば指揮者の立つ位置に置かれたそれは、ご丁寧に周りを見渡しやすいよう天板が外されている。 「やり方はわかってるだろう?しっかり頼むぞ、マエストロ。」 ばしん、と背を押されればやるしかない。チラリとスタジオ入口の隅を振り返れば、彗さんが胸の前で拳を握り、頑張ってくださいと無言のエールを送ってきた。 椅子を引き、ピアノの前に座って楽譜を広げる。改めて俺に注がれる視線を一つ一つ見返した。 完全アウェーの中でも、やる事は一つだ。俺にできる最高の曲を作りたい。その為にはこの人達の力が必要なんだ。 俺は鍵盤に指をのばし、一音響かせる。演奏の基準となる音。始まりの音。 俺の弾いたA音に合わせて各自が楽器を鳴らしチューニングしていく。 不思議なものだ。同じ道を歩むつもりは全くなかったのに、俺は今ここにいる。背中を追いかけていたつもりはないのに、俺は今あの背中を思い起こしている。 やり方? そんなものわかってる。嫌という程見てきたんだから。 チューニングを終え、再び静寂が訪れた室内で、俺は右手を上げる。全員が楽器を構えたのを確認してゆっくりと振り下ろした。 映画の冒頭、物語の舞台となる田舎の集落と自然の描写に合わせた穏やかな曲から全ては始まる。 ゆるやかな四拍子、俺の指の動きに合わせて弦楽器の低音が空気を震わせた。主旋律を繰り返しながら展開し広がりをみせる音に、指を振って木管、金管と音を乗せていく。 本来なら指揮をしながら表情や強弱、細かいところを指示していかなければならないのだが、俺はあえて何も言わず振り続けた。聞こえてくる音に神経を研ぎ澄ませ、耳を傾ける。 皆同じ音を出しているはずなのに、全ての音が違う。それが重なり、厚みとなって音に深みを増していく。 決して一人では出せない音の波。穏やかにゆっくりと押し寄せ、そして引いていく。そのタイミングで俺は振っていた指を鍵盤におろした。 凪いだ音の波の中、ピアノの音を響かせる。ここからは音の応酬だ。俺の弾いた旋律をヴァイオリンが返す。そうしてそれをまた俺が返す。 視線で合図を送りながら、微妙に変化し繰り返していく旋律を最後には全体で。寄せては返していた音が一つにまとまり、この空間を満たしていく。 どこか懐かしさを感じる穏やかな旋律は、最後には緩やかに、緩やかに、空気に溶けていくように消えていき、優しく終わりの一音を響かせる。 余韻を残し、十分に音を響かせたタイミングで鍵盤から指を離せば、それを合図にオケの演奏もピタリと止んだ。 しん、と静まり返った室内を一瞥する。演奏前とは空気が変わり、重苦しさは消えた気がするが…… 振り間違いはなかったはずだ。あとは、 チラリと黒澤さんに視線を送れば、ニヤリと意味深な笑みを返された。 「さて、siki君。我々の演奏はどうだったかな?」 やはりきたか。 このおっさん、とんでもない事をやらかしてくれた。内心悪態をつきながら、俺は譜面台に並べられた楽譜を頼りに必死に記憶を思い起こす。 「……五小節目、コンバスが一音飛ばしました。」 黒澤さんの眉がピクリと跳ね上がった。 「ピアノが入る二小節前、オーボエのパートをクラリネットが吹きました。その後すぐに今度はヴィオラがワンテンポ遅れた。それから二度目のピアノパートの時に第一と第二ヴァイオリンが入れ替わった。」 全員の視線が俺に突き刺さる。背中にじっとりと汗をかきつつ、俺は平静を装い必死に楽譜をさらっていく。 「最後から十小節前、ハープが鳴らなかった。その一小節後に第二ヴァイオリンが走ったのはおそらくわざとではなかったと思うので……」 じ、と黒澤さんに視線をおくる。いや、多分睨みつけていたと思う。 「…………以上五ヶ所、です。」 自信なんてない。誰にも気づかれないよう小さく息をのめば、黒澤さんは口元を歪め膝を叩いて盛大に笑った。 「あっはっはっ、お見事!」 その反応に、俺は息を吐く。どうやら全問正解したらしい。 「いやぁ、その昔誠一にも同じ事をやったんだよ。でもまさか弾き振りしながらやってのけるとは、恐れ入った!」 なにが否定的な意見を持つ人間も中にはいるだ。楽団全員で俺を試すなんて、結局俺を一番信用していなかったのはこのおっさんじゃないか。 送る視線がついきついものになってしまうが、黒澤さんは気にせず笑い続けている。 「気づかないようなら指揮は俺が代わろうかと思っていたが、杞憂だったな。」 黒澤さんはその場に立ち上がり、団員達を見回した。 「というわけで、彼の実力は聞いての通りだ。文句がある奴は一人の音楽家として遠慮なく何でも言ってやれ。あ、父親への恨みつらみはぶつけてやるなよ。」 黒澤さんの言葉に室内にどっと笑いがおこった。 指揮とはオーケストラとのぶつかり合い。親父の言葉が今更ながらに思い出される。 しまった。テストには正解したが、これは絶対に選択肢を誤った。 リハーサルが今日を入れて三日、収録に二日。それだけの間俺はこの一癖も二癖もある人達とやり合わないといけないのか。 胃が、胃が…痛い……… 結局五日間の間、俺は胃薬を飲み続ける羽目になった。

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