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第60話
自室の机の上で、俺はヴァイオリンケースを開いた。
そろそろ彗 さんが迎えに来る時間ではあるのだけれど、なんとなく落ち着かなくて。俺はケースの中から小さな革製の袋を取り出した。
中身は手の平に収まるくらいの小さな音叉。柄の部分を握りU字に曲がった金属部分を机の角にぶつける。キン、と金属の鈍い音をたてたそれを耳元によせた。
耳元で綺麗な振動音が聴こえる。
ヴァイオリン調弦の基本になるAの音。オーケストラのチューニングの基準になる音。
小さくなって消えていくまで、目を閉じてその音に耳をすませた。
ザワついていた心音が少しだけ落ち着いた気がする。
Kオーケストラとの収録最終日。
泣いても笑っても……いや、正直胃痛で泣きたいことばかりだった気がしないでもないが、とにかくこれで最後だ。
俺は音叉を袋に戻し、ジャケットのポケットにしまい込む。
そのタイミングで机の脇に置いていたスマホが振動し、彗さんからのメールの着信を知らせた。
もうすぐ着きますといつもの文面を確認して、俺は自らの両頬を軽く叩いてから、胸ポケットにペンを挿し鞄片手に部屋を出た。
指揮者の仕事はリハーサルを終えた時点で八割がた終了している。以前親父はそう言っていた。
曲全体のイメージを伝え、全員で共有し、 演奏家一人一人と意見を擦り合わせていく。それが終われば本番はただ全員のタイミングを合わせるために指揮棒を振るだけだ。
その言葉通り、三日間の荒れに荒れたリハーサルとは打って変わって、昨日、今日と収録はスムーズに進んでいる。
リテイクを出すことはほぼなく、最終日の今日も既に予定の半分を消化していた。
「オッケーです!」
曲を弾き終わり、二階の音声ブースから黒澤海音 さんの声がとんでくる。
その瞬間、張り詰めていた空気が一気に和らいだ。
各々伸びをして、息を吐いて、緊張を解いて席を立つ。
これで午前の予定は全て終了だ。お疲れ様ですと舞台袖から顔を出した彗さんが昼食の準備が出来ていますと、全員を誘導していく。
俺もピアノの蓋を閉じ、その場で肩をぐるりと回してから席を立った。
「お疲れ様でーす。」
不意に背後から声をかけられステージ下へと視線を落とせば、そこにはいつの間に二階のブースから降りてきたのか、黒澤海音さんの姿があった。
オールバックの髪型がいつも通りビシッと決まっている。ただ、いつもは原色で目に痛い柄物のシャツを着ているが、流石に場所を考えてかここ二日間は色味が抑えられたジャケットに変わっていた。
まぁ、それでもどこで買ったんだろうと疑問に思うくらいには周りから浮いているけれど。
彼の手には二本のマイクスタンドとマイクが握られていた。午後からは曲中にヴァイオリンとチェロ、それぞれソロパートが入ってくるのでおそらくはそれ用のマイクを設置しに降りてきたんだろう。
「指揮の邪魔にならないか、場所を確認してもらっていいです?」
もちろん断る理由はない。俺は皆がステージから離れていく中で、ピアノの前に座り直した。
手際よくスタンドを設置していくその姿をぼんやりと見つめる。
ふと、その横顔が気になった。
「黒…海音さんはどうして音響の仕事を選んだんですか。」
手持ち無沙汰で、なんとなく今まで聞けなかったことが口からついてでていた。
マイクスタンドを設置するその横顔、海音さんの左の顎の下には痣がある。あれはヴァイオリン、ヴィオラを演奏する人間特有の痣だ。しかも、相当な練習をしない限りはつかない。初めて会った時から弾ける人なんだろうなと思ってはいたが、事情は人それぞれと今までは聞くことはしなかった。
けれど、彼の父親が黒澤寛人 であると知ってしまった今、なぜ彼がこの道を選んだのか少し気になっていた。
俺の独り言のような呟きに、海音さんは小さく笑う。
「ガキの頃から音楽が身近にあって、好きだったのは間違いないんですよね。で、一番身近なヴァイオリンやってはみたものの……なーんか違ったんですよ。」
スタンドの高さを調節するその手は休めず、俺に背を向けたまま海音さんは話を続ける。
「俺にとって最高のヴァイオリニストは黒澤寛人なわけですよ。そこに並びたいとか、追いつきたいとかは全く思わなくて。むしろ、自分で弾くより親父の演奏聴いてた方が楽しいなと思っちゃいまして。」
ああ、やっぱりか。それは、俺も覚えがある感情だった。
「……違う道を進んだようで、結局はこうして同じ曲に関わってるんですから不思議なもんですよねぇ。」
立ち上がり、俺の方を振り返ったその顔には照れ笑いが浮かんでいた。
「親子で仕事って気まずくなかったです?」
「初めてだったんで、まぁないと言えばウソになるけど、おかげさまで楽しかったですよ。昨日なんて久々に二人で飲みに行きましたしね……sikiさんの話を肴に。」
ニヤリと海音さんの口角が上がる。その顔だけでどんな話をされたのかわかってしまって、俺は逆に眉間に皺を寄せた。
二本目のスタンドを設置するその後ろ姿を思わずむすっと睨みつけてしまう。
「聞きましたよぉ?色々と洗礼受けたんだって?」
くすくすと聞こえる笑い声に俺の脳裏には胃の痛い光景が思い出される。
ここが違う、わかりづらい。そんな細かい指摘を何度くらったことだろう。振り間違いなんてしようものなら容赦なくボロクソに言われた。
自分で作った曲なのに解釈が違うと言われ、最後には俺もキレながら本気で大人達相手にやり合っていたのだ。
まぁ、だからこそ結果いい音が出せているとは思うけど。
しばらくオケとの仕事はいいかなと胃を押えながらぼやけば、マイクの設置を終えて立ち上がった海音さんが盛大に吹き出した。
「いやぁ、最初はどうなる事かと思ったけど、よかったよかった。sikiさん下見の時心ここにあらずだったし、彗さんと二人で心配してたんですよ?」
「それは……ほんと、すみませんでした。」
「ったく、今度はどんな失恋したのやら。」
不意打ちで投げられた言葉の槍は、グサリと刺さって俺の息の根を完全に止めた。
一度目もしっかりバレてる……
否定しなければ肯定も同じなのに、あまりに的確に急所を突かれて反論の言葉どころか呻き声しか出てこない。
下見では確かに迷惑をかけた。しかも今日は監督が見学に来ていて、その対応を全て海音さんに任せてしまっている。これは間違いなくそのお返しというやつだ。
歩み寄り、ピアノに寄りかかった海音さんはしてやったりと口の端をつり上げる。その顔はここ数日ずっと目にしてきた胃痛の原因とそっくりで。俺はキリキリ痛む胃を押えながら楽しそうなその顔を睨む事しかできなかった。
けっして、振られたわけじゃない。…………まだ。
その言葉は飲み込んで、代わりにスタンドの位置が問題ない事を告げ席を立つ。
くそ、ここ数日周りから玩具にされている気がしてならない。残りあと五曲、このまま無事にやりきれるのか不安になってきた。くすくすと聞こえる笑い声を背にして俺は昼食と胃薬を摂るために控え室に向かおうとしたのだけれど、
「色さん!」
血相を変えてステージに駆け込んできた彗さんによって、俺の不安は全く別の意味で的中する事になってしまった。
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