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第63話

弱々しく震える指が、遠慮がちに裾を引く。上手く伝えられない言葉の代わりに。 俺は震えるその手から彗さんへと視線を移した。 「……彗さん、その、タクシーを一台捕まえといてくれないか?」 「わかりました。公園の入り口でお待ちしてますね。」 俺の言葉の意味を正確に理解したのだろう。彗さんは俺達に微笑み、軽く会釈してから席を外してくれた。 その後ろ姿を見ながら、俺はシャツを掴む美鳥の手を取りそっと握りしめる。 セミの鳴き声を遠くに聞きながら、ただじっと美鳥の言葉を待った。 「……泣き言を、言ってもいいかな。」 「ああ。」 震える手を強く握り返す。 美鳥は俯き、細い肩を少しだけ俺の方へ寄せた。 「…………怖い、よ。」 初めて畔倉アイスアリーナで美鳥の演技を見せてもらった時、美鳥は同じ事を言っていた。 皆を裏切り、その視線に晒されながらたった一人で氷上に立つことが怖いと。 でも、今の美鳥が抱いている思いはきっとあの時とは少し違う。 美鳥にはもう支えてくれる人間がいる。氷上に立つのは一人かもしれないが、その後ろに俺達がいる事をこいつはちゃんとわかっている。 それでも、いや、だからこそこいつは今恐怖を感じているんだろう。 「これだけの人に迷惑をかけて、たくさんの人の期待を裏切って。沢山の人に支えてもらって……そこまでして、自分の表現を貫いていいのかな。僕の演技に、そんな価値あるのかな。」 それは、俺自身何度となく抱いた疑問……恐怖だった。 自身に関わる人間が多くなればなるほどそれは大きくなって押しつぶされそうになる。 多くの人間を巻き込んでまでやるべき事なのか。そこになんの意味があるのか。 何度思った事だろう。そうして、そのたびに俺は思い出すんだ。 「……美鳥は、なんでフィギュアスケート始めたんだ?」 俯いていた顔が上げられる。その亜麻色が俺を映した。 「誰かに評価して欲しいとか、いい点数取りたいとか、多分そうじゃなかっただろ?」 迷いなく、美鳥は頷く。 「……綺麗だって思った。華やかで、綺麗で、衝撃で。僕も、あんな風に滑れたらって思った。」 俺も。と返せば、美鳥その口元に小さな笑みが灯る。 「結局さ、いろいろ考えて悩むけど、好きなんだよ。俺にはこれしかないんだ。だから、この先もずっと音楽を続けていくにはどうしたらいいのか。……俺はいつも、今じゃなくて先の自分が後悔しない道を考えるようにしてる。」 初めて親父の演奏を生で見た時。初めてヴァイオリンを弾いた時。初めて曲を作った時。初めて満足のいくピアノが弾けた時。 思い出す。思い出して、その時の気持ちに勝るものがこの先あるのか考える。別の道を選んで、未来の自分は本当に後悔しないか考える。 「周りじゃない、自分の事を考えろ。……逃げてもいい。周りの期待する演技をしたっていい。お前がこの先一番後悔しないと思う選択をすればいい。」 続ける事も、やめる事も、どちらも勇気のいる事だ。どちらを選んでも辛い時は必ずある。 だったら、自分が一番やりたい事をやればいい。 「お前がどんな選択をしようと俺はそれを責めないし、そばで支える。だから周りは気にするな。」 「櫻井君……」 「まぁ、その。お前がそれを許してくれるなら、だけ…」 言葉は最後まで紡げなかった。 繋いでいた手をぎゅっと引かれ、視界いっぱいに迫ってきた亜麻色が伏せられる。俺が驚きに目を見開いた時には、唇に温もりが落とされていた。 触れるだけ。ほんの一瞬感じた温もりは、じん、と唇から全身に伝わって心臓を震わせる。 「……そばに、いて。」 互いの吐息を感じる距離で切なく漏れた言葉は、息が出来ないくらいに俺の心臓を締めつけた。 亜麻色に引き寄せられるように、今度は俺から唇を塞いだ。 触れて、離れて。 その一瞬で、泣きたいほどに苦しい想いが心臓を満たしていく。 俺を見つめるその瞳は、涙に滲んでいた。 「……櫻井君に話したい事、沢山あるんだ。」 「俺も、沢山ある。」 「……でも、」 「ああ。」 全てを終わらせてから。 全て終わったら、その時は。その時こそは。 互いの瞳を見つめて小さく頷いて。 互いの意志を確認するように、俺達はまた触れるだけの口づけを交わす。 閉じた瞳をゆっくりと開けば、そこには優しい笑みを浮かべた美鳥がいた。 「……ありがとう。もう、大丈夫。」 その声には、迷いも不安も感じられなかった。 ベンチから立ち上がり手を差し出せば、美鳥は俺の手を取り立ち上がる。 互いに顔を見合せて、無言で頷いて。 どちらともなく、俺たちは並んで歩き出していた。 公園の入り口で俺たちを待っていてくれた彗さんが、俺たちの姿を見つけてほっとしたように微笑む。 「お話、出来たみたいですね。」 「ご迷惑、おかけしました。」 深々と頭を下げる美鳥に彗さんはとんでもないと頭を振る。 「彗さん。俺がタクシーで戻るから、美鳥を送ってやってくれないか?」 俺にもやるべき事があって、これ以上ここにはいられないから。 「俺の代わりに、美鳥に少し付いててやってほしい。」 「わかりました。」 「……櫻井君、色々ありがとう。」 本当はもっとそばにいてやりたい。大丈夫だと美鳥はわらったけど、それでも不安や恐怖の全てが消えたわけじゃないだろうから。 そばにいられないけど、せめて…… 「あ、」 俺はふと着ていたジャケットのポケットを探った。確か、今朝入れたはず。 「あった。」 そこに入っていた小さな革製の袋を取り出し、美鳥の前に差し出した。 亜麻色がきょとんとした瞳でそれを見つめる。 「やる。いらないなら捨ててくれ。」 戸惑いながらも俺の手から袋を受け取った美鳥は、袋を開けゆっくりと中身を取り出した。 U字の金属に柄のついた小さな調律器具。 「音叉……?」 美鳥にとっては必要のないものだろうけど。何となく、渡しておきたかったんだ。 「それなら小さいから……持っとけるだろ?」 俺は胸ポケットに挿さしていた深緑のペンにとんとんと指で触れる。 気持ちだけでも近くに。そんな思いで晃と美鳥が贈ってくれた、ペン。 俺も同じように、何か。その意図は、しっかりと美鳥に伝わったらしい。 大きく見開かれた亜麻色が、小さな音叉を見つめ、ぎゅっと握りしめる。 「……ありがとう。」 「大会、間に合わないかもしれない。でも、必ず行くから。」 「うん。……待ってる。」 それじゃあ、また。 伝えたい言葉は、今は飲み込んで。俺は優しく笑うその顔に、同じように笑みを返してから二人に背を向けた。 自分のやるべき事をするために。

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