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閑話 響く音
去りゆくタクシーが見えなくなるまで見送って、寂しさを感じた心を誤魔化すように手にしていた小さな袋を握りしめた。
もう大丈夫。彼に貰った言葉と温もりを、小さな袋ごと胸に手を当て噛み締める。
「さて、美鳥 さん。」
「あ、はい。」
彗さんの言葉に僕は俯いていた顔を上げた。
そろそろ僕達も行かなくちゃ。藍原 君達が迎えに来てくれるのはまだ先の事だけど、彗 さんだってお仕事中だから僕の為にこれ以上迷惑はかけられない。
そう、思っていたのだけど。
「提案なんですが……少し、寄り道して行きませんか?」
「え?……どこに、ですか?」
「私といるより、ずっとずっと元気を貰える所にです。」
黒縁のメガネのその奥にはイタズラを思いついた子供みたいに無邪気に細められた瞳があって。
僕はその笑みの意図がわからず、ただ首を傾げる事しか出来なかった。
「あ、ああの、ほ、ほほ本当にぼ、僕がここにいてもだ、だだだ大丈夫ですか?」
ど、どうしよう。さっきから緊張しすぎて震えがおさまらない。彗さんは大丈夫ですよと平然としているけど、ここは寄り道なんて軽い気持ちで立ち寄れるような場所じゃ絶対にない。間違いなく関係者以外立ち入り禁止。本来なら僕は門前払いされているはずの場所だ。
爆発しそうに跳ねる心臓を何とか押さえつけながら、不安できょろきょろと周りを見間わす僕に彗さんは笑った。
「どうせ皆さん演奏でステージにいて、ここには私しかいませんから。少しくらいなら大丈夫ですよ。」
絶対、絶対に大丈夫じゃないと思う。
何もわからないまま彗さんの後ろについてやって来てしまったのは、都内にあるコンサートホール。
そんなに大きな場所じゃなくて、多分ピアノ教室の発表会とか、アマチュアの方達が楽器を持ち寄って演奏するような場所なんだと思う。
けれど、多分今日ここで行われているのはそんな気軽に聴きに来れるような演奏じゃないはず。彗さんは何も言わなかったけど、多分、間違いなく今ここにいるのは……
正面ではなく裏口から案内されて、本来なら絶対に立ち入れないステージ袖に入れてもらって。
袖幕に隠れるように彗さんと二人でこっそりとステージを覗き込めば、そこには思った通りの光景が広がっていた。
ヴァイオリンにチェロ、クラリネットにトランペット……オーケストラの人達に囲まれるようにステージの中央に置かれているグランドピアノ。オーケストラの人達と向かい合うように置かれたそのピアノの前に座るのは、先程別れたばかりの人だ。
譜面台に広げられた楽譜に真剣に目を通す、その横顔にどきりとする。
いつもより眉間に皺を寄せた険しい顔。音楽家、sikiの横顔。
彗さんいわく、今は録音ブースからの指示を待っている状況らしい。オーケストラの録音は編集がきかない。だから、演奏中に足音や雑音が入ると最初から撮り直しをしなければならないらしく、今は録音した音を確認している状態で、みんなはそれを待っているんだとか。
多分、オーケストラの人達は一流の腕前を持つプロの人達だ。その中で、そんな人達の中心にいる彼は堂々としていて、やっぱり凄い人なんだって改めて思い知らされた。
ステージから伝わってくる気迫に思わず息を飲み、手にしていた袋を握りしめる。
「……初心を、思い出すんだそうですよ。」
ぽつりと漏らされた声に視線を隣へと移せば、彗さんの優しい笑みと視線が僕の手元へと注がれていた。
「そもそも色 さんは絶対音感をもっていらっしゃいますから、慣れてしまえばヴァイオリン調弦にチューナーも音叉も必要ないんですよ。それでも、時折その音を聴いているのを見たことがあります。」
茶色い革製の袋を開き、中に入っていた音叉を取り出してみる。
お借りしても?とかけられた声に頷いてそれを手渡せば、彗さんは使い方を教えてくれた。
柄を軽く握り、壁にU字部分の先端をコツンとぶつける。きんっ、と硬質な金属音をたてた音叉の柄の先端を、彗さんは僕の耳の裏側、付け根の部分に軽く押し当ててくれた。
電子音のように真っ直ぐな、けれど澄んだ音が僕の耳から身体の中に広がっていく。
「この音を聴いていると、音楽を本格的にやり始めた頃のことを思い出すんだそうです。」
櫻井君が、何十回、何百回と聴いた音。
彗さんの手から音叉を受け取った僕はそれを握りしめ、視線を櫻井君へと戻した。
「色さんが正式にsikiとして活動し始めたのは中学一年生の時です。……何も言っては下さいませんが、きっと不安や迷いを感じる事もたくさんあったんでしょうね。」
その言葉は、僕にとっては衝撃だった。
いつだって堂々としていて、自信に満ち溢れていて、確固たるものを持っている人。
僕にとっては神様みたいな人。
どこか遠い存在のように思っていたけど、でも、櫻井君も人間なんだ。
僕のように迷ったり悩んだりしては、きっとこの音を聴いて自分の気持ちを確認して、一人で前を向いて歩いてきたのかもしれない。彼はたくさんのことを抱えて、乗り越えて、今あそこにいるんだ。
「今日もそれを持っていたということは、今回のお仕事に不安や緊張があったのかもしれませんね。」
どうしよう。僕は自分のことばかりで、彼がどんな気持ちで今日ここにいるのか考えもしなかった。
櫻井君がどんな気持ちでこの音叉を持っていたのか、気づけなかった。
「これ、とても大切なものなんじゃ。」
今更ながらに気づいた事実に血の気が引いていく。
けれど、そんな僕を見て彗さんは優しく微笑んだ。
「大切だからこそ、美鳥さんに託されたのでは?」
「そんな、」
僕には、こんな大切なものを貰う資格なんて……
『オッケーです!』
その時、客席の奥から聞こえてきた声に僕の思考は中断された。
一瞬だけステージがざわついて、緊張した空気が肌をヒリつかせる。
はっ、と意識を手元からステージへと戻せば、櫻井君は小さく息を吐きゆっくりと周りを見渡していた。皆の視線が櫻井君に集まっている。
その右手がさっと上げられれば、オーケストラの人々が一斉に楽器を構えた。
そうか、櫻井君が指揮もするんだ。
ぴん、と張り詰めた空気の中、櫻井君の指がゆっくりと振り下ろされた。
緩やかな四拍子。振り下ろされる指に合わせて弦楽器が鳴り響く。
小さなホールに、煌めきが広がっていく。
あの日の、星空だ。
寮の屋上。真夜中に、櫻井君と眺めたあの星空が広がっていく。
櫻井君が指を振るたび音が加わって、暗闇に幾億もの星が瞬いていく。
しん、と澄んだ空気にこぼれ落ちそうなほどにひしめき合う星達。瞬く光が淡く優しく地上を照らしてくれている。
櫻井君には、あの星空がこんな風に見えていたんだ。
優しくて、温かくて。なのにきゅっと胸が切なくなる。
どこか懐かしい音。sikiが創る世界は、心の内までじん、と響いて湧き上がる感情ごと身体を震わせる。
「……やっと、ここまできてくださいました。」
僕と同じように櫻井君の横顔を眺めながら、彗さんがポツリともらした。
「お父様の、櫻井誠一 の息子だと色眼鏡で見られたくない事情はわかるんです。でも、彼はもっと多くの人の前に出て、その名を知られるべき人なんです。」
やっと、ここまできてくれた。
彗さんの言葉には重みがあった。きっと、ずっとずっとそばで櫻井君を見てきたんだろう。誰にも知られたくないとひっそりと奏でられる音を、こうして影で聴いていたんだろう。
櫻井君を見つめる瞳はまるで弟を見つめるような優しさに溢れていた。
「私では背中を押してあげられなかったんです。多くの人の目に触れる恐怖を超えてまで曲を作りたい。そう奮い立たせる事は、私には出来なかったんです。」
優しい瞳が、真っ直ぐ僕に向けられる。
ありがとうございますと下げられた頭の意味が、僕には理解できなかった。
「……え?」
自分を指さして首を傾げれば、彗さんは顔を上げ、くすりと笑った。
「自分の表現を貫き通す。あなたのその意志と演技には、色さんだけじゃなく私も勇気を貰いました。」
胸に、熱いものが込み上げてきた。
人の心に響く演技がしたい。僕の心に響いたsikiの曲を、僕のやり方で表現して誰かの心に響かせることができたら。ずっと、ずっとそう思ってきた。
震える僕の手に、彗さんの手が重ねられる。小さな音叉を握りしめるその手を、彗さんは優しく包んでくれた。
「……色さんにはきっとこれはもう必要ないものなんですよ。」
響いたんだろうか。真っ直ぐ、彼に届いたんだろうか。
僕の演技は、あの人の力になれたんだろうか。
だとしたら、それは。
溢れた嬉しさは涙になって瞳からこぼれ落ちた。
彗さんは何も言わず、僕の涙が止まるまでただ優しく手を握ってくれていた。
煌めく星空が響くホールの片隅で、その音が止むまで、ずっと、ずっと。
「色さんに、声かけてきましょうか。」
音が止み、再び静寂の訪れたホール。
彗さんの提案に、けれど僕は首を横に振った。視界の隅に櫻井君の姿が映る。滲んでいた視界を、僕は指で拭った。
「帰ります。……今は、帰って滑りたいんです。」
言葉も温もりも思いも貰った。
だから、僕はそれを返したい。自分にできる最高の演技で。
今僕がいるべきはここじゃないんだ。
僕の言葉に、彗さんは嬉しそうに笑った。
「駅までお送りします。」
お願いしますと頭を下げてから、握りしめていた小さな袋をズボンのポケットにしまって、先を歩き始めた彗さんの後を追う。
再び音楽が流れ始めていたステージを振り返ることはしなかった。
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