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第64話 Midori
録音ブースから声がとんで、俺はピアノから立ち上がった。
最後の一曲。俺は全員を見回し両手を上げる。皆が楽器を構えたのを確認して、ゆっくりと指を振り下ろした。
コンバスとチェロの低音から始まる緩やかな音。ニ長調の旋律が空気を震わせる。
単調な旋律が繰り返される中で次第にヴィオラ、ヴァイオリンと音が重なり広がりをみせていく。
風がふきぬけるようにホールに音が駆け抜け、空間が満たされていくのを感じながら、俺は左手を振り下ろした。
俺の合図でヴァイオリンがピチカートで主旋律を奏で始める。
最後の一曲。五年前に作った曲の編曲。俺はあえてこの曲だけピアノを使わなかった。せっかくオーケストラとやれるんだ、最高の演奏を、最高の特等席で純粋に観客として聴いてみたいじゃないか。
自分の作った曲。それがどんな風に聴こえるのか、どんな風に響くのか、一度聞いてみたかったんだ。
トランペットの太陽が降り注ぐ中、フルートの風が吹き、クラリネットの川が流れる。田舎の畦道をピチカートで子供達が駆け回る夏の風景。
五年前、親父の古い友人であるレコード会社の社長に声をかけられ、今の会社に所属するという話が出た時、俺はテストをしたいと課題を出された。俺にどれだけの実力があるのか、売り出すだけの価値があるのか。この曲はその時に作った中の一曲だ。
俺にとって、全ての始まりの曲。
何故か彗さんがこの曲をいたく気に入ってくれて、事務員として入社したはずなのに各所にこの曲を売り込んでくれた結果、アニメ映画の曲に起用されることになり、劇中曲を全て担当するという、いきなりにして大きな初仕事が舞い込んできた。
そうして今、彗さんは俺のマネージャーを兼任してくれるようになり、映画は二作目の制作が決まり、黒澤さん達オーケストラ、音響の海音さん、監督と多くの人間がここに集まり一つの音を奏でている。
たった一つの音から始まり、集まり、繋がっていく。
これが、音楽。俺のしている事なんだ。
俺が指を振り下ろせば、ヴァイオリンが主旋律を高らかに歌い上げ、どこか懐かしさを感じる景色を描いていく。
その旋律を木管が引き継ぎ、金管へ繋ぎ、最後には全体で。小さなホールいっぱいに俺の旋律が広がっていく。
じわり、胸が熱くなっていくのは旋律のせいなのか、それともこれで終わってしまう寂しさからなのか。
一音一音を噛みしめながら、俺は最後まで指を振り続けた。
演奏する皆を、ステージ袖で見守ってくれている彗さんを、俺の背後で聴いてくれている監督と海音さんを、そして遠くにいる晃達を、そしてあの亜麻色を。
見渡して、思い起こして、脳裏に旋律と共に刻みつけていく。
これが、今の俺に出せる音。これで、最後だ。
最後の一音がホールに響く。名残惜しい気持ちを押し込め開いていた手をぐ、と握りしめれば音はピタリと止んだ。
しん、と静まり返った中で俺はゆっくりと腕を下ろす。皆が楽器を下ろし、表情を弛緩させたタイミングで、背後からオッケーですと海音さんの声がとんできた。
終わった。やりきったんだ。
高揚感に熱くなる身体を小さく息を吐いて落ち着けてから、俺はオケの一人一人を見回してから自然と頭を下げていた。
「ありがとうございました。」
ステージ袖や音響ブースにまで届くように声を張り上げる。
ぱちぱちと聞こえた音にゆっくりと頭を上げれば、黒澤さんが席を立ち拍手を送ってくれていた。それは次第に周りに広がり、オケの皆の拍手がホールに響く。そこにはステージに顔を出した彗さんの姿もあった。
この人達に評価されたと、そう思ってもいいんだろうか。
「お疲れ様。お見事だったよ。」
黒澤さんにそう言われれば、何ともむず痒い気持ちにおそわれる。
「至らない所を助けてもらって、本当にありがとうございました。」
俺は黒澤さんに向き直り改めて頭を下げようとしたのだけれど、やめなさいと手で制されてしまった。
「対等な関係で、むやみやたらと頭を下げるもんじゃない。それに、礼を言うのはこちらの方だよ。」
ありがとうと言葉と共に差し出された黒澤さんの右手を、俺は握り返した。
ホールにまた拍手が響く。
それはステージだけではなく、客席からも聞こえてきた。
いつの間に降りてきたのか、海音さんともう一人。
「siki先生、お疲れ様でした!」
「……監督、先生は勘弁してください。」
かけられた声に思わず苦笑してしまう。親父と歳の変わらないアニメ映画界の巨匠にそう呼ばれるには、俺はまだまだ若輩者だ。
今回で二回目の仕事だが、監督と顔を合わせるのは今日が初めてだった。
まさか仕事相手がこんな子供だったとは思いもしていなかったはず。それでも、常にやり取りをしていたメールの印象と同じく温和な笑みを浮かべたその人は、ゆっくりと階段をのぼり俺の前へと歩み寄る。その背後では海音さんがニヤニヤと口角を上げ、父親である寛人さんと肩を並べて成り行きを見守っていた。
「先生は先生ですよ。今日はお姿を拝見できてよかったです。……ああ、でも今日は先生と美味い酒が呑めると思って来たから、残念だなぁ。」
ため息とともに漏らされた言葉に、ホールにどっと笑いが湧く。
恥ずかしいやら申し訳ないやら。皆の笑いが溢れる中で、俺は監督に右手を差し出した。
「三年後、また続編を作る時には是非誘ってください。」
「もちろんです。その時は皆さんで行きましょう。」
監督の手が俺の手を握り、ホールに再び拍手がおきる。
それは不思議な感覚だった。五年前はスタジオで一人で弾いていたのに、今俺はこれだけの人に囲まれている。もし次があるのなら、その輪はもっと広がっているんだろうか。
少しは広い世界が見れたのかな。
たくさんの拍手に包まれながら、俺はふと数日後に会うであろう幼なじみの言葉を思い出していた。
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