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第65話

ワックスで髪を整え、ブロード生地の光沢ある真白のシャツに、シルクのネクタイ。制服でも問題ないはずの場であえてブラックスーツを選んだのは、あいつの前では子供でいたくないという見栄なのかもしれなかった。 ロビーで案内された会場の重厚なドアを両手で開けば、広い会場の奥でポツリと一人佇む存在があった。 黒々と大きな瞳が俺の姿を目にしてパチリと瞬いてから細められる。身長はいつの間にか俺が追い越してしまったけれど、成人してなお幼さを感じさせるくせに、背筋をしゃんと伸ばし凛として存在を放っているのは変わらない。 ああ、でも少し髪が伸びたか。いつもは肩より上で切りそろえられていた髪はおそらく今日の為に伸ばしたんだろう。 「……よぉ。」 「よぉ。ごめんね、こんな事になっちゃって。」 久しぶりだとか、なんで俺だけ二時間も早く呼び出されてるんだとか、言いたいことは沢山あったが、俺はとりあえず会えたら真っ先に言ってやろうと決めていた言葉をなげかける。 「ったく、なんつー相手捕まえてくれてんだてめぇは。」 「あはは、ごめーん。」 悪いと思っているのかいないのか。片目をパチリと閉じ、両手を合わせながら、櫻井緑(さくらいみどり)はふふっと懐かしい笑顔をみせた。 話したい事があるので式が始まる前に来て欲しい。招待状にご丁寧にも手書きで書き加えられていたその指示に従い俺は何故か式の二時間も前にこうして会場であるホテルへと足を運んでいた。緑はこれから式の準備に入るらしく、ドレスではなく私服のオフホワイトのワンピース姿だ。 「ごめんね、呼び出しちゃって。」 「別にいい。俺も渡したい物があったから。」 積もる話は色々とあるが、とりあえず俺はスーツの内ポケットに入れていた一枚の封筒を無言で緑に差し出す。 Happy weddingと書かれた白い封筒を受け取り、緑は誰からと首を傾げる。 「(あきら)から預かってきた。」 「うそ、晃君!?嬉しい、元気にしてる?」 晃が家の都合で引っ越したのはもう三年も前のことだ。緑にとっては懐かしい名前なんだろう。 「今あいつと同じ高校なんだよ。生徒会長やって元気に学校中引っ掻き回してる。」 「えー、いいなぁ。絶対楽しい学校じゃない。そっか、突然遠くに転校したって聞いてビックリしたけど、そういう事か。」 「お前の結婚相手知って、あの晃が絶句してたぞ。今度どうやって旦那捕まえたのか、じっくり聞かせろとさ。」 その辺は俺も知りたいと無言の圧を送れば、受け取った封筒を手に緑はあははと苦笑する。 「ほんっと、昔からやる事が豪胆っつーか、破天荒っつーか。」 「別に出自や役職で結婚決めたわけじゃないもの。……彼が大学の講演会に来た時に私がお茶出ししたんだけど、そこで意気投合しちゃってね。」 数時間後には自らが座るのであろう座席とその隣の席へと視線を落とし、緑は小さくはにかんだ。 「境遇が似てるというか、ほら、偉大すぎる親や親族がいるプレッシャーみたいな?」 「それはそれは。だったら俺も新郎と結婚出来そうだ。」 嫌味の一つもぶつけてやれば、緑はもうっ、と頬を膨らませる。 「趣味も合ったし、波長が合うというか、居心地がいいといいますか…」 「はいはい。で、惚気けるためにわざわざ呼び出したのか?」 時間ないんじゃないのかと話を切り上げてやれば、緑はようやく本題を思い出したようだ。チラリと意味ありげな視線が俺へと注がれる。 一瞬背筋がぞくりとした。十数年こいつといた中での経験から、俺の中で警鐘が鳴り響く。どう考えても嫌な予感しかしない。 一体何だと視線の意味を問うより早く、緑はがしっと俺の両手を思いっきり掴んできた。 「ねぇ、色。お願いがあるんだけど、聞いてくれる?」 大きな瞳がじ、と俺を見上げる。 「き、聞くだけなら。」 ふふっとその口元が楽しそうに弧を描き、俺は思わず息を飲んだ。 「あのね、今日の披露宴、BGM一切頼んでないの。」 「…………は?」 一瞬、思考が止まった。 「はぁぁぁぁ!?」 俺の絶叫が広い会場内に響く。 サラリと聞こえた言葉が信じられずに目の前の存在を睨みつけるが、緑はただ楽しそうに笑うだけだ。 「おま、何考えてんだ!」 「だって、色のピアノ聴きたいんだもん。」 二時間も早く呼び出した理由はこれか。 会場に入ってきた時から隅にピアノが置いてあるなとは思った。思ったが、まさか、まさかこんな。 「お前、今日のゲスト達の前で俺に弾けっつってんのか!?」 「そう。言ってる。」 親族含め殆どが音楽関係者。耳の肥えた人間たちの前で延々弾き続けろなんてなんの罰ゲームだそれ。 「許可ならとったわよ。お義父さんに。」 あのクソジジイ。 プロとして契約している以上、外で無闇やたらに弾くなって言いやがった張本人が何簡単に許可出してくれてんだ。 「可愛い義娘の為ならって即オッケーしてもらいました。」 頭痛がしてきた。 そうだよ、こいつは俺だけじゃなく晃の幼なじみでもあるんだ。昔から毎回毎回晃と二人で突飛な行動を起こしては、何故か俺も一緒に大人達に怒られる事の繰り返し。なんでこいつらの提案にはいつも断るっていう選択肢がないんだよ。 俺はふらつきそうになる足を何とか必死にこらえた。 「彼の仕事の都合で、これからはオーストラリアで生活するの。色のピアノ、簡単に聴けなくなっちゃうから……ね?」 「ね?も何も拒否権なんてないだろうが。」 深いため息とともにがっくりと項垂れ降参の意を示せば、緑はぱちぱちと手を叩いて喜び跳ねる。 「……リクエストは?ずっとド定番でメンデルスゾーンでも弾いときゃいいのか?」 「えー、せっかくなんだから色の曲がいい。」 もうこうなれば何を弾こうと一緒だ。好きにしろと投げやりに答えれば、緑は楽しそうに俺の曲を指折り数えていく。 「入場はね、愛の挨拶のアレンジあったじゃない?あれがいいなぁ。で、Passion orangeでしょ、スカーレットに、あ、スライド流す時はいつかの夏でお願いします。」 「へいへい。」 「それからねぇ、Midori…」 「断る。」 緑の指がピタリと止まり、その瞳が不思議そうに俺へと向けられる。 「え、ダメ?」 「Midoriだけは断る。それだけはもう弾かないって決めてんだ。」 あいつの前以外ではもう弾かない。と言うより、もう弾けない。 諦めろ笑って言えば、緑はつまらなさそうに頬をふくらませた。 「なーんだ、Midoriってもしかして私の曲なのかなぁ、なんて思ってたんだけど。」 「ちげーよ。」 ……今は、もう。 この言葉は、俺の中だけで飲み込んだ。 どこで弾こうと、誰の前で弾こうと、俺はこの先あの亜麻色を思い出す。あいつの事を思ってしかもう弾けない。 Midoriはもう、たった一人のための曲だから。 「……特別、なんだ?」 返事の代わりに小さく笑えば、緑も何かを察したのだろう。ふーんと何か言いたげな視線は向けられるものの、それ以上追求することはしてこなかった。 「じゃあ、あとはプランナーさん来るから流れとか打ち合わせよろしく。」 「わかった。……あ、緑。」 そろそろ行かなきゃと背を向けた緑を、けれど俺は引き止めていた。 「結婚おめでとう。」 幼なじみが遠くに行ってしまうほんの少しの寂しさと、姉のように慕っていた彼女が常に笑っていられる場所を見つけられた嬉しさと。 自然に口から漏れた言葉に、緑は顔をほころばせる。 「ありがとう。」 ヒラヒラと手を振り踵を返したその後ろ姿が扉の向こうへと消えてしまえば、広い会場には俺一人。 ふう、と吐いた吐息は静けさに吸い込まれていく。 俺は会場の隅に置かれていたグランドピアノへと歩み寄り、腰を下ろした。 あと二時間、せいぜいあいつを泣かせる構成考えて弾いてやろうじゃないか。 でも、その前に。 俺は腕の時計で時間を確認する。日本との時差を考えればそろそろだろうか。 ふと遠くの地にいる亜麻色が脳裏をよぎる。 緊張してないだろうか。周りからの重圧に押しつぶされそうになってやしないだろうか。 そばにはいてやれないけど、それでも後悔なく滑れるように。ただひたすらに願うことしか俺には出来ないけど。 一人で氷上に立っているであろうあいつの姿を思い描いて、俺はゆっくりと鍵盤に指を走らせる。 亜麻色の髪の乙女。変ト長調の聞きなれた有名な旋律。美鳥飛鳥の、ショートプログラムの曲。 原曲よりもアップテンポなその曲があいつのそばで鳴り響いて、少しでもその心を支えてやっている事を願いながら、俺は誰もいないこの場所で、一人ピアノを引き続けた。

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