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第66話

ポケットに入れていたスマホが振動して、俺は着信画面を確認する前に咄嗟にとっていた。 「もしもし、」 『もしもし。今大丈夫?』 「……(あきら)か。」 予想していたものとは違った声に、俺は無意識のうちに声のトーンを落としてしまっていた。電話の向こうでもう、と晃の不機嫌そうな声がする。 『悪ったね、美鳥君じゃなくて。……本人は連絡しづらそうだったからさ。シャワー浴びてる間にこっそり報告しちゃおうと思って。』 「っ、何かあったのか!?」 大会が始まる前にも、終わっただろう時間にも、晃と美鳥それぞれにメールを送ってはいたのだが、どちらも反応がなく何かあったのかと不安に駆られていたところだった。 あいつのやりたい演技が出来たのか、また傷つくような事になってはいないか。全く情報が入ってこない中不安は大きくなるばかりで、胸に挿していたペンを何度握りつぶしそうになったことか。 電話越し聞こえてきた否定とも肯定ともとれるうーん、という声に、思わずスマホを握る手に力が入る。 『結論から言うと、ショートプログラムは美鳥君が六人中トップだった。』 ずしりと言葉が重く響いた。 「……点数を取りにいったのか。」 そうなるかもしれないと思ってはいた。だけどいざ聞かされれば、息苦しさに胸が詰まる。 けれど、俺の反応をよそに晃は大丈夫だよと笑った。 『立華さんが、フリーを万全の体制で滑りたいなら初日はスケート連盟の引き止めに応じた振りをしたほうがいいんじゃないかって提案してくれてね。僕もそれに賛成したんだよ。』 「……そう、か。」 それでも本人の望まぬ演技をした事に変わりはない。あいつが俺に連絡してこないのは、俺への後ろめたさからなんだろう。 『美鳥君自身も迷ってたみたいだったから、ギリギリまでどちらの選択も出来るようにって勧めたんだけど。……多分、美鳥君には別の思惑もあったんじゃないかな。』 「どういう事だ?」 あいつが自分の意思を曲げてまで、本意ではない演技をする理由。 あくまでも僕の想像だけどと前置いて、晃は言葉を続ける。 『本人は何も言わないけどさ、明日のフリープログラムの滑走順は、今日の順位が反映されるんだよ。』 みぞおちを打たれたような衝撃に呼吸が止まる。 まさかあいつは、 『ショートトップだった美鳥君のフリーの滑走順は……一番最後だよ。』 待ってるっていうのか、俺を。 その為に自身の表現を曲げて、時間を引き延ばしたって言うのか。 あいつ。大丈夫だって言ったくせに。やっぱり、平気じゃないんじゃないか。 『……ねぇ、今どこにいるのさ。何とか間に合わせられないの?』 苦しそうな晃の声に、俺は思わず席を立ちスマホに向かって声を張り上げる。 「空港だよ!予定より二時間早く会場出て、ずっとキャンセル待ちかけてたんだ!」 周りの視線が俺に注がれ、慌てて椅子に座り直して声を抑える。 「おかげさまで今から半日エコノミーだよ。」 『……そっか。』 ほんの少し、ほっとしたような安堵の声。 「それでも、ギリギリだ。間に合わないかもしれない。」 『うん。……それでも、ね。』 晃の声が遠くに離れ、ゴソゴソと物音が聞こえてきた。遠くでうっすらと話し声が聞こえる。 『代わるねー!』 耳をすまそうとスマホに耳を押し当てた瞬間、晃の大声が耳元で鼓膜を突き破らんばかりに響きぐわん、と頭を揺らした。うるせぇと怒鳴りつけてやりたかったが、俺の怒りは、え、なに、と聞こえてきた困惑の声に霧散する。 とくんと心臓が跳ねた。 「……もしもし、」 『あ。……さくらい、くん。』 声で状況を察したのだろう。聴きたかった声が、俺の名前を呼んだ。 それだけで、体温が上がった気がした。 「……今から、飛行機に乗る。」 『うん。』 「本当にギリギリだ。……間に合わないかもしれない。」 『うん。大丈夫、だよ。』 無意識にため息が漏れた。 こいつは本当に嘘が下手だ。そんな震える声で大丈夫なんて言われて、誰が信じられるか。 不安も恐怖も全くないなんて、そんな事は絶対にありえない。滑りたいと思っていても、いざその場に立って足がすくんでしまっているのかもしれない。 スマホを握りしめ必死に耐えている姿が容易に想像できて、俺は拳を握りしめる。 視界の隅で電光掲示板が点灯し、癖のあるオーストラリア英語の登場案内が始まった。 そろそろ行かなきゃいけない。 「……美鳥飛鳥(みどりあすか)。」 『は、はいっ、』 なんで隣にいてやれないんだろう。 会いたい。今すぐ会って伝えたいのに。 「……胸を張れ。次に会う時は胸を張って言ってくれるんだろ?」 頑張れ、なんて言えない。こいつはいつだって孤独と、周りと、自分自身と戦ってきたんだから。 だからこそ、どんな結果であれ自信を持ってそこに立っていてほしい。 「迎えに行くから、絶対。何も考えずに胸張って俺の音聴いてろ。」 はっと息を飲む音が聞こえた。 『……うん。』 氷上に立つその直前まで隣にいてやりたかった。それは叶わなくなったけど、でも、俺はちゃんと残してきた。 四分三秒に全てを込めて。 「Midoriは美鳥飛鳥のものだ。お前の思う通りに滑っていい。その為の曲なんだから。」 『うん。……うんっ。僕の思うMidoriを滑って、待ってる。』 わずかに明るさの戻った声にほっと息を吐き、俺はその場に立ち上がった。 「じゃあ、もう行くから。」 『うん。ありがとう。』 電話越しに小さく笑ったのだろう息づかいを聞きながら、俺は通話を切りスマホをジャケットのポケットにしまい込んだ。 あとはもう祈るだけだ。間に合うように、あいつが後悔しない結末を迎えられるように。 約十時間のフライトは正直もどかしかった。 わかってはいても気持ちばかりが先へ先へと進んでいって、身体はそこに縛りつけられていて。 早鐘を打ち続ける心臓のせいでほとんど眠ることも出来なかった。 だからこそ、日本に着いた時にはいてもたってもいられず足は自然と駆け出していた。 一斉に到着口へと向かう人の並をかき分けてとにかく前へ。 間に合うか。とにかく急いで会場に行かないと。 大会開始にはおそらく間に合わない。でも、あいつの演技時間には、もしかしたら。 逆算しようと腕時計をみれば、時差を戻し忘れていた事に今更ながらに気がついた。焦る頭では二時間なんて簡単な時刻のズレも計算できなくて、走りながら俺はジャケットに入れていたスマホを取り出す。 時刻を確認しようと画面を開いたその時、 ヴーッヴーッ タイミングよく手にしていたスマホが振動し、そこに意外な人からの着信を表示していた。

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