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第67話
俺がどこにいるのかなんて知っているだろうに。なぜ今。
深く考える前に俺は走りながら通話のアイコンをタップする。
「もしもし、彗 さん?」
『色 さん!今どちらですか!!』
耳元で聞こえた大音響に思わずスマホを一度遠ざける。
「空港!今着いたばっかだけ…」
『色さん!荷物は諦めてそのままタクシー乗り場ではなく駐車場目指して走って下さい!』
「は?」
荷物はそもそもオーストラリアに全部置いてきた。一秒でも早くタクシーに飛び乗って会場に向かうつもりだったから。
わけもわからないまま駆け足でゲートをくぐり、そのままエスカレーターを駆け下りて外へと出る。その間もスマホは耳に当てたままだ。
「彗さん、外出たけど、っ、いったいなに…」
「色さん!!」
声は耳元ではなく俺の前から聞こえてきた。
「なんで……」
駐車場前の道の脇に停められている見覚えのある車。助手席の扉が開かれ、運転席から俺の名を呼んだのは間違いなく今電話で繋がっていた彗さん、その人だった。
「急いで下さい!」
困惑している時間なんてない。スマホをジャケットのポケットにねじ込み、考えるより早く俺は車に飛び乗った。
「えっと、」
「シートベルトしてください!……今日は仕事じゃないので飛ばしますから。」
「へ?あ、ちょっ、まっっ!!」
呼吸を整えることすら許して貰えず、俺の言葉は綺麗に無視され彗さんは思いっきりアクセルを踏み込んだ。
ガクッと身体が前に投げ出され、俺は慌ててシートベルトを掴み固定する。
眼鏡の奥に見える彗さんの目が、完全に据わってる。
聞いた事のないような音をたてながら猛スピードで走り出した車の中で、俺はなんとか混乱する頭を落ち着けようとしてはみたものの、ダメだ、生命の危険を感じてそれどころじゃない。
結局俺はシートベルトを握りしめ、考える事を放棄した。
「……な、なんでこんな事になってんの?」
恐る恐る聞いてみれば、彗さんは前を見据えたまま口を開いた。
「私だって、スケート部の一員のつもりなので。というか、フィギュアスケートファンとして、美鳥飛鳥 の引退試合観たいじゃないですか!」
「いや、じゃあなんでここにいるんだよ。」
彗さんが大会を観に行きたいのはわかる。そもそも当日は晃 達と会場で落ち合う約束をしたという話を出国前にしていたのも覚えている。
だからこそ彗さんの言動も行動もわけがわからない。
「ここにいたら、間に合わないかもしれないだろ。」
「間に合わせます!昨日藍原 さんから連絡もらって、必ずお連れしますって約束したんですから!」
「だから、なんで?」
俺を迎えになんて来てしまったら、最後の演技を観る事が出来なくなるかもしれないのに。
俺の疑問の声に、彗さんはほんの一瞬信じられないといった視線を投げかけ、また正面へと顔を戻す。
「最後なんですよ?最高の演技をして欲しいし、観たいじゃないですか!その為には色さんを連れていかなきゃでしょ!?」
「へ?」
「美鳥さんにとって貴方がどれだけ大切な存在なのか自覚してくださいよ!」
「っ、」
顔から火が出るかと思った。
真っ赤になっているであろう顔を隠すため、片手で顔を覆う。
「……あのさ、彗さんは俺と美鳥を何だと思ってるわけ?」
指の隙間からその横顔を覗き見れば、彗さんはえ、と瞳を見開き俺を見る。
何言ってんだこいつと、その顔が如実に語っていた。
うん、前を見てほしい。前を。
「あ。も、もしかして隠してるつもりでした!?そ、そうですよね、まだまだ偏見は根強くありますしね。あ、あの、今言った事は忘れてください。」
申し訳ありませんと突然我にかえって謝られても、こちらとしては頭を抱えるしかない。そんなにわかりやすい……というか、誤解される行動をとっていたんだろうか。
恥ずかしさのあまりダッシュボードに突っ伏した。
「…………えっとさ、付き合ってない。」
「はぁ!?」
「彗さん前!まえっ!」
グラりと蛇行した車に、後ろからクラクションが鳴らされる。彗さんは慌ててハンドルを握り直すが、チラリと黒縁眼鏡のレンズ越しに向けられるその視線は今までに見た事がないくらい険しいものだった。
「なんで付き合ってないんです!?」
「え、いや……なんでと言われましても。」
視線が、怖い。なんで俺怒られてるんだろうか。
「何でもない人にわざわざレコーディングしなおした唯一無二のCD渡して、大事な音叉渡して、いなくなった時には探すために仕事抜け出して、……あ、あ挙句キスまでしたって言うんですか!?」
「見てたのかよ!」
駄目だ。改めて言葉にされると恥ずかしさで死にそうだ。
いや、ほんと何やってんだ俺。彗さんの視線がどんどん厳しいものに変わっていく。
「思わせぶりな態度取りすぎでしょ!?美鳥さんに謝って下さい!」
「謝るよ!色々あり過ぎて次会った時は土下座だよ!」
「謝る前に言う事あるでしょうが!何も言わなくても伝わってるなんて思ったら大間違いですからね!」
正論すぎてぐうの音も出ない。
挙句そんなだから従姉弟さんにも振られるんですよと一突きで息の根を止められ、俺はダッシュボードに頭を思いっきりぶつけた。
魂の抜けかけた俺にそれでも矢のように厳しい視線を投げながら、会場へ向かう長い道のりの中、彗さんは車内で延々と俺にお説教し続け、俺はそれを居住まい正して聞き続けるしかなかった。
……そうでもして気を紛らわせていないと、この状況にやきもきし過ぎて心臓が破裂しそうだったから。
会場まであと一時間。そろそろ大会二日目、最後の幕が開けようとしていた。
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