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第69話
ピアノの音に合わせてゆっくりと滑り出せば、衣装の裾がはためく。裾に飾りがあるだけのシンプルなその服は深緑から淡いグリーンへのグラデーションになっていた。
華美な衣装はかえって演技の邪魔になる。君の演技はそれだけで十分華があるからと、三笠 先輩が美鳥飛鳥 の為に作った衣装。氷上の白に、緑が映える。
軽快に跳ねるピアノの音に合わせて細い身体は軽やかに跳び、くるりと舞う。音が跳ねるたび、亜麻色をなびかせ無邪気な子供のように氷上をくるくると跳び回るその姿に会場からどよめきが起こった。
この場所にいるほとんどがスケートの知識を持っている関係者。その演技が高い得点を出すという意味では無意味で無価値だとわかっているんだろう。
けれど、次第に皆口を噤んでいく。言葉を失い、誰もが美鳥飛鳥の演技に引き寄せられていく。
それは、一人の人間の軌跡だった。
一人自由に駆け回っていたはずの身体が、いつしか緩やかに穏やかにステップを踏む。そこにいる存在に手を伸ばし、抱き寄せ、まるで誰かとダンスを踊るかのように。
けれど、穏やかだった曲に陰りが見えた時、氷上で踊っていたその身体が失速し、立ち止まる。
高らかに歌っていた音に混ざる短調が、駆けるように速度を上げ、存在を増し、主旋律とぶつかり合う。
気がつけば隣にいたはずの存在はそこにはなく、迷い、戸惑い、苦しみ、絶望、全てを抱えて氷上を孤独に彷徨い駆け回る。出口のない迷路を、もがきながら進んでいく姿に、誰もが息を飲んだ。
その指が、視線が、髪の一本ですら、訴えかけてくる。氷を這うように滑り、くるりと回るその身体が何かに怯えるように動きを止めては、また動きはじめる。
速度を上げる不穏な音。音の波に細い身体が飲み込まれていく。思わず目を背けたくなるような光景なのに、吸い寄せられるようにその姿を目で追ってしまう。
この先どうなってしまうのか、呼吸すら忘れてただその存在を見つめる。
快速に 、活発に 、急速に 。
速度を上げた音は観客をも飲み込み、空気を掻き乱す。
誰もが不安に息を飲んだその瞬間、空に向かってす、と手が伸ばされた。
そうだ。不安にも、恐怖にも、何度となく押しつぶされそうになっても、あいつはそこで滑ることをやめたりしない。
いつだって、己を貫いてきた。真っ直ぐ、手を伸ばして。
空に伸ばした手を己の胸に当て、ぎゅっと抱きしめるようにしてふわりと回る。
その口元に灯る笑みに、俺は拳をぎゅっと握りしめた。
行け。
一際大きく音が跳ねて、訪れる無音。 その瞬間、背後にチラリと視線を移してから身体をひねり、
ふわりと飛んだ。
真っ直ぐ、前に。
半回転の、失敗とされるジャンプ。
けれどそれは長い弧を描き、時を止めたかのように静まり返ったこの場所で、何よりも美しく気高かく見えた。
じわりと滲む視界を腕で拭う。
まだだ。最後まで見届ける。
しん、としたリンクに優しい音が波紋のように広がりはじめる。 緩やかな音に合わせて、リンクの中央で片足を頭上に高く持ち上げ、まるで羽を広げた鳥のようにくるくるとその身体が回った。
最後は自らの身体を抱きしめるようにして高速で回り、ピタリと動きを止める。
亜麻色と、俺の視線が重なる。
最後の一音が凛、と氷上に響き渡るなか、飛鳥は胸に当てていた手をす、とこちらに向かって真っ直ぐのばし、その口元に優しく笑みを浮かべた。
音が止んでも、世界はしばらく時を止めたままだった。
今目の前で起こったことに理解が追いついてこない。皆そんな状態だった。
しん、と静まり返った会場。
そこに、パチパチと小さな拍手が聞こえた。二階の観客席から聞こえたそれは周りへと広がっていき、やがて会場中に大きな拍手の波となって氷上に立つたった一人に鳴り響く。
たくさんの拍手を受けながら、飛鳥はその場で深々と頭を下げた。
謝罪と感謝と。
注がれる拍手がなり止むまでずっと。
再び会場に静寂が訪れてから頭がゆっくりと上げられ、涙に滲む亜麻色が真っ直ぐ俺を見つめる。
肩を震わせながら真っ直ぐ滑って飛び込んできた身体を、俺はその手で受け止めた。
「っ、……ぁ、」
泣きじゃくる美鳥の後頭部にそっと手を回して、俺の肩に顔を埋めさせる。
俺も美鳥の肩に顔を埋める。
何も言えなかった。
何を言っても違う気がした。
自分でも説明のできない感情が身体の奥底から込み上げてきて、瞳からこぼれ落ちていく。
互いの熱を感じながら、互いに身体を震わせ、俺達はただただ涙した。
確かなのは、終わったという事。そして、俺は今見た光景を、この温もりを、この感情を一生忘れないだろうって事。
遠くで飛鳥の点数を告げるアナウンスが流れて会場がどよめけば、飛鳥は俺の肩から顔を上げ、泣き腫らした瞳でリンクに向けて再び深々と頭を下げた。
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