僕達の前に置かれた二つのグラスにシェイカーから綺麗な液体が注がれる。 先生の方には淡緑色の柑橘系の香りがするお酒が。僕の方には淡いピンクのジュースが。 どうぞ、とグラスをそれぞれ目の前に差し出されて僕達は無言で手に取った。乾杯なんて口にはしないけど、グラス片手にチラリと互いに一瞬だけ視線を合わせてから、また視線をグラスへと戻す。白のなかにわずかにある淡い淡いピンク。桜みたいな、切ない色。 「綺麗……」 いただきますと呟いて、グラスに口をつける。軽く傾ければ、桃の香りが鼻を抜け、優しい甘さが喉を通り過ぎていった。 「あ、おいしい。」 素直な感想がぽろりと口から漏れれば、バーテンダーのお兄さんは口元を綻ばせる。 「ありがとうございます。」 凄く甘いのに、ベタベタと残らず後味はスッキリしている。初めての味だった。 「メインは桃のノンアルコールリキュールなんですが……隠し味、なんだと思いますか？」 優しい微笑みと共に投げられた問いに、僕は首を傾げた。桃の味はわかるんだけど、甘さだけじゃないこの後味はなんだろう。 チラリと先生に視線を送ってはみたものの、さあなと肩を竦められただけだった。 降参ですと片手をあげれば、お兄さんはしてやったりと目を細める。 「実は、青汁なんです。」 「うっそ、」 「へぇ、」 予想外の言葉に僕も先生も目を丸くした。 「甘さを感じるためには、苦味が必要なんですよ。人生と一緒です。」 思わず声に出して笑ってしまった。 なるほど、これは今の僕にピッタリな一杯ってことか。 グラスをまた一口傾ける。 優しくて、甘くて。そこに苦味があるなんて、話を聞いた後でもわからなかった。 「苦味は、甘さに上書きされちゃうんですよ。それでも微かに残って全体の甘さを整えてくれるので、なくてはならないものなんです。」 「そっか。……僕もいつか、そういう甘い恋できますかねぇ。」 今はほろ苦さしかないけれど、いつか、誰かと。 上書きできるような、今以上の恋なんてこの世の中に本当にあるのかな。切なくて、自分じゃどうにもならないくらいドキドキする。そんな恋、今はちょっと想像できないかもしれない。 「……次なんてすぐ見つかるだろ。お前の事をベタベタに甘やかしてくれるような物好きが、どっかに一人ぐらいいるさ。」 ぽん、と頭に乗せられた手が、僕の髪を優しく掻き乱した。 それはすぐに離れていったけど、じんわりと残った熱に何故だかぎゅっと胸が苦しくなる。 僕はそれを誤魔化すように、またグラスを傾けた。 「……意外と、お相手は近くにいるのかもしれませんよ？」 「だったらいいなぁ。」 僕の身近なんて、それこそあの二人とこの人くらいしかいないけど。 マイペースにグラスを傾ける横顔を一瞥して、僕はカウンターに頬杖をつく。 コースターにグラスを置き、その淡いピンクを覗き込みながら、ちょん、とグラスの口をつついた。 指から伝わる僅かな振動が、グラスの中身を揺らめかせる。 「お兄さん、もう一杯甘いのくださーい。」 そこに映っていた泣きそうに笑う情けない顔を、広がる波紋で消してから、僕はグラスの中身を一気に煽って空のグラスを差し出した。 結局一時間以上バーテンダーのお兄さんに話に付き合ってもらい、美味しいジュースのレシピまで教えてもらったところでお客が増えてきたバーカウンターを後にした。 部屋に戻ってとりあえずベッドに飛び込んでごろりと転がり、高い天井を眺めながら、はぁ、と余韻を吐き出す。 「楽しかったぁ。」 「そりゃよかった。」 隣のベッドに腰掛けて、スマホを確認するその後ろ姿を横目でぼんやりと眺めた。 何となく、バーにいた時から感じていた違和感。 「……ねぇ、総士さん？」 「それ、やめろ。」 即答されて思わず苦笑する。振り返ったその顔は、眉間に皺を寄せ何とも言えない渋い表情をしていた。 その顔を眺める暇もなく、先生はすぐにまた僕に背を向ける。 「あ、やっぱり気に入ってなかったんだ。」 「気に入るとかそういう問題じゃねぇだろ。」 いつもならもう少し軽口叩いたり、笑ったり。表情をみせる先生が、あの場所では何も言わずグラスを傾けていた。時折何か言いたげな視線を感じてはいたのに、ほとんど会話らしい会話がなかったのは、不機嫌にさせてしまっていたからなのか。 「……ごめんね。」 僕はベッドの上に身を起こし、その背中に頭を下げる。 先生はまた、僕の方を振り返った。 「今日だけじゃなくて、色々。……先生にはさ、結局一番迷惑かけちゃったよね。」 言葉は何も返ってこなかった。代わりに、はぁ、と重いため息が静まり返った室内に響く。 ゆっくりとその場に立ち上がった先生は無言のまま僕に歩み寄りベッドに座る僕を真っ直ぐに見下ろした。 「一人で抱え込んで暴走されるよりよっぽどいい。……こんな事くらい、いくらでも付き合ってやる。」 思わず、返答につまった。 俺を巻き込むなって、また言われるのかと思ってたのに。 「ね、ねぇ、ホント今日どうしちゃったの？」 いつもみたいに軽口叩いてくれないと、調子狂う。そんな目で見られたって、どう返していいかわからないのに。 じ、と真っ直ぐに見つめられれば、冗談めかした言葉なんて言えなくなってしまう。 先生の手が、そっと僕の頬に触れた。 「……お前が、そんな顔してるからだろうが。」 手のひらの温もりが、じんわりと僕の身体に染み込んでいく。 なんでだろ。急に目の奥がつんとして、視界が滲んだ。 泣くほど悲しくなんて、辛くなんて、なかったはずなのに。そう、思っていたのに。 なんで、この人は僕自身ですら気づかなかったものを見つけちゃうんだろ。 「……晃、」 先生の顔がゆっくりと僕に近づいて、その唇が触れた。 僕の唇の端。触れるか、触れないか、ギリギリの場所。 突然の事に理解が追いつかなくて呆然と立ち尽くしている間に、かさついた唇は離れていった。 「全部忘れろ。で、もっと周りを見ろ。」 零れそうになっていた涙は、一瞬にしてどこかへ行ってしまった。 頭が真っ白に染まる。 どうしよう。胸が、苦しい。 呼吸ってどうやってしてたっけ。 「また前みたいに適当に誰かと遊んだっていい。……そんな顔しなくてもよくなる相手、早いとこ探せ。」 僕を見下ろす瞳から、目が離せない。 喉がカラカラに乾いて、思わず息を飲んだ。 「……ねぇ、それは、僕の目の前にはいないの？」 「いねぇよ。……いるわけないだろ。」 何言ってんだと小さく笑うその顔は、けれど苦しそうに眉根を寄せて、切なく僕に視線を向ける。 「ざまぁみろ。たまには振り回される側の気持ちを思い知れ。」 いつもの口調で。 でも、胸が締め付けられるくらい苦しそうな顔で笑って。 何が嘘で、何が真実なのか。 わからない。頭が、心が、混乱してる。 「煙草吸ってくる。……お子様は寝てろよ。」 いつものようにわしゃわしゃと僕の髪を掻き乱して離れていく手を、夢見てるみたいな感覚でぼんやりと見上げる。 気がつけば先生は、僕に背を向けヒラヒラと片手を振りながら入口の扉へと手をかけていた。 「え、ちょっと、」 慌てて立ち上がり手を伸ばしたところでもう遅い。 扉はパタリと閉められ、先生はその向こうに姿を消してしまった。 「………………なに、それ。」 ずるりと身体がその場に崩れ落ちる。 逃げられた。 全てをはぐらかされて、無かったことにされた。 でも、唇の端に落とされた熱は身体中に回って、さっきのキスが夢なんかじゃないって伝えてくる。 なんで、どうして。 バクバクと全身が心臓になったみたいに脈打って、今にも破裂しそうだった。 「そうし、さん……」 名前を呼んだって返事なんて当然返ってこないけど。 失恋の悲しみを困惑に上書きしたその人の存在は、何故だがぎゅっと僕の胸を締め付けて僕の脳内を占拠してしまった。 ┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈ Midoriでは、この人達の話はここまで。 Midoriを全て書き終えたら（あと数話で終了予定）晃君主人公のお話でハッピーエンドな話を書く……予定です。