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第76話
緊張に固く引き結ばれていた唇を、自らの唇で塞ぐ。
噛み締めすぎて血の気の引いていたそこに熱を灯して、触れ合いながら感じていた震えが治まったのを確認してから俺は深く貪りたい衝動を抑えて唇を離した。
閉じられていた瞳から亜麻色が顔を出し、俺を映す。その頬には先程までの蒼白な顔色とは違い、うっすらと赤みが差していた。
「緊張、とけたか?」
「……少し。」
それでもまだまだ硬い表情に俺は思わず笑って、あやす様に髪を撫ぜてやった。
畔倉 アイスアリーナの二階観客席の奥、元々有線放送やCDを流すための年代物のアンプが置いてあったこの部屋が、俺の作業場兼飛鳥の控え室になっている。ほぼ物置になっていた部屋を、オーナーである源さんの許可を得てミキシング放送が出来るように色々と機材を入れさせてもらい、とりあえず納得が行くレベルまで環境を整えさせてもらった。
放送部から使っていない機材を譲ってもらった……と、源 さんと飛鳥には説明しているが、実際は黒澤海音 さんに打診した結果ノリノリで揃えてもらい設置までしてもらったわけだ。「なるほどねぇ、そういう事でしたか」とニヤニヤしながら言われた言葉の意味は考えないようにしている。
とにかく「スケートを滑る美鳥飛鳥を支える部」改め「スケートを滑る美鳥飛鳥を世間に売り込んでいく部」の部員としてやれる事はなんでもやるつもりだ。人前に出るような観客の整理誘導は畔倉アイスアリーナの人達や木崎、それに彗 さんが。繋ぎのMCは晃 が引き受けてくれていて、俺は申し訳ないが一人部屋に篭ってこうして音響を担当させてもらっている。
少しでも表に出て顔を見られるのは危ない。皆に揃ってそう言われるくらい、今美鳥飛鳥は世間から注目を集めていた。オリンピックの代表争いに名前のあがっていた人間が、突然選手を引退して今後は部活を頑張りますなんて言い出したのだから、当然と言えば当然だろう。
マスコミに取り囲まれる中で話をしてから半月。最近は取材の数も落ち着いてきていたが、スケート部のアイスショー初日である今日はさすがにすごい人の入りだ。換気用の小さな窓から外の様子を覗けば、二階席は招待した小学校の子供達を含め既に人で埋まっていて、テレビ局であろう人間の姿もちらほら見える。
「今日のために構成練ってずっと練習してきたんだろ。」
「う、うん。」
飛鳥は自らの衣装の裾をぎゅっと握りしめた。
空色の柔らかな生地で作られたハイネックの衣装。風になびくよう長めにとられた裾には数箇所スリットが入っている。僅かにスパンコールが縫い付けてあるだけのシンプルなデザインは、部屋の隅に立てかけてある長さ三メートルを超える長い真っ白な布、さらには彩華スケート部とロゴの入った俺達の着ているスタッフTシャツと共に手芸部部長、三笠 先輩のデザインだ。
一曲目に何をするかとなった時、飛鳥は晃の好きな曲でやりたいと即答した。少しでも世話になったお礼と感謝を伝えられたらと。 その結果あいつがいつも雑な鼻歌で奏でていた「sky blue」を演技用に編曲した。
本番前のリハーサルで晃に初めて曲と演技をお披露目した時には、あの晃が瞳を潤ませ声を詰まらせるという何とも珍しい光景を見たもんだ。
空をイメージしたその衣装で雲に見立てた長い布をなびかせリンクを滑走する姿は俺の目から見ても中々に迫力があった。
道具を自由に使えるようになったからこそ出来る演技は、飛鳥がやりたかった事の一つらしい。
「リハーサル通りにやれば大丈夫だ。」
「そう、だよね。いつも通りに滑ればいいんだよね。」
飛鳥は首から下げていたチェーンを衣装の中から引っ張り出し、そこに付いていた小さな音叉をぎゅっと握りしめた。飛鳥にとってお守りになっているそれを、祈るように両手で握り、ふう、と長い息を吐く。
俺はその背を軽く叩いてやった。
「そろそろはじめるぞ。」
頷いた飛鳥の呼吸が落ち着いたのを確認して、俺は首にかけていたヘッドセットを装着しマイクの電源を入れた。
「こちら音響室。そろそろ10分前の放送入れるぞ。」
腕の時計を見ながら告げれば、了解と各所からの返事が返ってくる。
それ以上の言葉がないところをみると、どうやら今のところ順調らしい。
『色 、状況次第では時間早めるからね。飛鳥に早めにスタンバイするように言っといて。』
「わかった。……飛鳥、晃が開始を早めるかもだと。」
「り、了解ですっ。」
通信を切ってから俺は飛鳥に先程のやり取りを伝え、ミキサーの前に腰を下ろした。
飛鳥用の椅子も置いているが、飛鳥は俺の隣に立ち、落ち着かない様子で窓の外の状況を伺っている。
俺は予めセットしていた録音音声の再生ボタンを押し、オーディオミキサーの音量を上げた。壁の向こうから放送部に吹き込んでもらっていた音声がスケート部の発表が間もなく始まる旨を告げ、滑走する客にリンクを開ける協力を促す。
全ての客がリンクの外に出次第スタートさせる予定ではあったのだが……
『あー、僕らが声をかけるまでもなくお客さん大人しくリンク開けてくれちゃったね。』
『藍原、客を待たせても無意味だ。もう始めちまえ。』
『りょーかい。色、マイクよろしくー。』
「わかった。各自音量に問題あれば報告くれ。」
はじめるぞ、とインカムのついていない飛鳥にも状況がわかるよう口に出してから、晃の手にしているマイクのボリュームを上げ、うっすらとBGMも流す。窓から外を確認すれば、小さな影がリンクの中央へゆっくりと滑っていく姿が見えた。
『みなさーん、こーんにーちはー!』
晃の声と、観客の歓声。壁一枚隔てた向こうで、空気が震える。
まずは晃による子供向けの挨拶とフィギュアスケートについての簡単な説明からだ。普段生徒会長として演説をこなしている晃だ、こういう事をやらせると本当に上手い。さっそく笑いを混じえながら観客の心を掴み始めている。客席には楽しそうな笑い声が響いていた。
外を見つめる飛鳥の口元にも笑みが灯る。
「……ずっと、夢だったんだ。夢だと思ってたんだ。まさか、こんな風に実現できるなんて思ってもみなかった。」
窓から晃の姿を眺めながら、飛鳥がぽつりと呟いた。
俺も隣に立ち、同じ景色を眺める。
「泣くにはまだ早いぞ。この先があるかどうかはお前次第なんだから。」
「……うん。」
今は話題性があるからと世間の目に止まっている状態だ。これから先、好奇の目を好意的な視線に変えられるかは飛鳥の演技次第。
今日のステージは始まりどころか、まだスタートラインにすら立てていないかもしれないんだ。
「……色、」
ぎゅっ、と飛鳥の手がオレのTシャツの裾を引いた。
俺は窓の外から亜麻色へと視線を戻し、小さく震えるその手をとる。そのまま引き寄せ、身体を抱きしめた。
互いの肩口に顔を埋め、その温もりを確かめる。
とくとくといつもより早い速度で生を刻む音を感じながら、俺達はどちらからともなく唇を重ねた。
触れるだけのキスは、唇に僅かな熱を残してすぐに離れていく。
「……そろそろ行くね。」
「ああ。」
行ってこい、と小さくその背を押して送り出した。
大きな布を抱えた飛鳥が、それでもどこか弾んだ足取りで部屋を出るのを見送ってから、俺はまたミキサーの前に腰を下ろす。
CDをセットしようと伸ばした手が小さく震えていることに今更ながらに気がついて、笑ってしまった。
Tシャツの胸ポケットに挿していた深緑のペンに触れ、長い息を吐く。
『さてさて、それじゃあそろそろ始めちゃおうかな。みなさーん、準備はいいですかー?』
壁の向こうからひときわ大きな歓声が聞こえた。
いよいよだ。
『それじゃあ、我が部が誇る最高の演技と音楽を楽しんでいってねー!』
氷上にかけてきた飛鳥と晃がタッチを交わして入れ替わる光景を窓から注視する。
白い布を纏った飛鳥は観客の声援を受けながらリンクの中央でピタリと止まり、俯いていた顔を上げた。その視線は真っ直ぐに二階席奥の俺の所へ向けられる。
遠くて表情なんて見えなかったはずなのに、小さく微笑んだ気がした。
俺はCDを再生させ、ミキサーのフェーダーを上げる。
俺の音を、あいつに届けるために。
ここからだ。
全て、ここから。
しん、と静まり返ったリンクに、ピアノの音が響き始めた。
𝐹𝑖𝑛.
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長い話にお付き合いいただき、ありがとうございました。
次ページにてご案内と御挨拶を。
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