80 / 275

衝突 3

 「何がそんなに楽しいんだ?」  私は助手席の少年に訊ねた。  少年は上機嫌だ。  私を見てはニヤニヤしている。  「スーツの嫁さん、見てみたかったんたよね、オレ」  楽しそうなのはそれか。  私が困るのが楽しいのか。  私はため息をつく。  「元、嫁だ。今は他人だ」  自らそうした。  縁を切った。  こうなるのが嫌だったから。  汚れ仕事をしている私に、彼女は相応しくない。  「・・・でも今でも好きなんだろ」  少年は当たり前のように言う。  「・・・」  私は答えない。  早く彼女を保護しなければ。  アイツはこういうことでは適当なことは言わない。  彼女を保護しろと言うのなら、それなりの根拠があるはずだ。  この焦る姿が、少年に確信を与えているのはわかっていた。  「・・・あんたも正義の味方なんだな」  少年が呟く。  さすがに驚く。  私は命令に従う、歯車だ。  上が必要だと思えば、少年を殺人鬼に差し出し、殺人鬼が殺人を行うこと助けさえする  少年が来るまで、あの男が週に一度のお楽しみで虐殺していたのは、一般人だっていたのだ。  男が楽しんだ後、死体を処理し、証拠を消す指示をしていたのは私だ。  正義とは遠い。  必要なら部下さえ見殺しにする。  歯車だ。  少年は本当には知らない。  私がどこまで手を汚したかなんて。  少年はあの男のことだって本当には知らない。  あの男も、私も、彼の前では本当には汚れた手をそれでも隠しているから。  「・・・誰かがやんなきゃいけないからあんたがやってんたろ。・・・嫁さんがいる世界を守らなきゃいけないから」  少年は呟くように言った。  それは自分に向かって言っているようにも聞こえた。  少年はあの男と捕食者に立ち向かう。  捕食者は人間を殺すものだから。  少年の大切な人々は人間だから。  少年はそのために戦い、そのために戦ってくれていることで、男の罪に目を閉じる。  「・・・そんないい理由だけじゃない」  私は呟いた。  もう戻れないからだ。  汚れ切った手で、今さら何をしろと。  この手ではもう彼女に触れることなども出来ない。    あの男が嬲り殺した青年の悲鳴。  男の楽しみが終わるまで、外で叫び苦しむ声を聞いていたこともある。  死体を迅速に処理するために。    一度始めたら止められないこともこの世界にはあるのだ。   駐車場に車を止めた。  「大学?」  少年は不思議そうに呟いた。  男と違い、少年は彼女について何の情報も知らないらしい。  あの男はおそらく全て知っている。  あれは脅しだ。  「お前のことはすべて知っている。僕を裏切ろうとは思うなよ」  そういう意味だ。  あの男だけは敵に回してはいけない。  全身の皮を剥かれた死体。  なかなか死なず、叫び続ける声。  苦痛を長引かせるプロフェッショナルでも男はあるのだ。  それが彼女に起こることだけは避けなければならなかった。  「ああ。彼女は数学者だ」  それも相当優秀な。  外国の大学からも誘いかあったが、生活の変化を嫌う彼女は日本に残ることを選んだ。  彼女は、単調な変わらない毎日と、美しい数学を愛しているのだ。  だから、この保護も・・・本当はしたくない。  今は1日一回の、SNSの投稿に「いいね」を押してやり、ひと月に一度、彼女が仕事帰りによる喫茶店で一緒にお茶をする、そのリズムを崩したくなかった。  予定外のことは彼女はとても苦手とすることなのだ。  少年にも説明しておかねば。  彼女は他の人達とは・・・異なる。  「彼女に会う前に説明しておきたいんだが・・・」  私はシートベルトを外して外に出ようとする少年に言いかけた。  いつもの通りなら、後数分後に彼女がこの駐車場にやってくるはずだ。  その前に・・・彼女に会う前に・・・少年には説明して起きたかった。  彼女との付き合い方を。  悲鳴が聞こえた。  女の声だ。  反応したのは少年だった。  ドアを開けて、弾けるように飛び出していく。  

ともだちにシェアしよう!