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祭 7

 乾いた心に雨のように声が落ちていく。   乾ききったざらついた心を、あたたかな優しい声が潤す。    詐欺師が話している。  何を話しているのか。  言葉なんて意味かない。  分かっていることは心地よいってこと。    この人か好きだと言うこと。    だから言う通りにしたらいいってこと。  言うなりになろう。  もう考えなくていい。  しでかしたことの責任もこの人がとってくれる。  自分を放棄した向こうにあるのは軽やかな拘束だ。    もう、何も考えなくていい。  何を考えればいいのかは教えてもらえる。    何が正しいのかも。  言われるがまま繰り返し、言われがまま行えば、認めてもらえる。  完全に認めて受け入れてもらえる。  それだけが全て。  自分がすることに失敗などなくなる。  だってそれが正しいのだ。   正しい人が行っているのだから。    俺には詐欺師が話し始めている間、ここにいる人達が何を思っているのかが手に取るようにわかった  だって、俺もそう思ったからだ。  詐欺師が言葉を言い終えた。  人々の心はまるで雨上がりのように満たされていた。  悩みは全て消えたのだ。  自分を捨てさえすれば悩みなとなくなるからだ。  会場の俺以外の全てが割れるばかりの拍手を詐欺師に送った。  歓喜の声と共に。  詐欺師は完全に彼らを手に入れた。  おそらく、詐欺師でさえも全員を同時に望むままに動かすにはこれだけのプロセスが必要だったのだ。  今、人々は完全に詐欺師のモノになった。  熱狂の叫びと拍手は嵐のようだった。  うねり荒れ狂い、会場を覆い尽くした。    その中で詐欺師は笑った。  清らかな聖人のような笑み。  なのにこれほど邪悪なという笑顔を俺は見たことはなかった。   詐欺師が片手をあげた。  それだけで一瞬で人々は静かになった。     熱狂も静寂も詐欺師の思いのまま。  柔らかな優しい声がまた心に落ちていく。  「入場の際、受付で受け取った袋を開けて下さい」  詐欺師が言った。  俺はパンフレットと一緒にもらった綺麗なブルーのB4サイズの封筒を手にする。  貰った時、ちらりと中をみたら、セミナーで使う教科書的な冊子が数冊入っていたのを覚えていた。  なんだ。  授業でもはじめる気か?    「袋の中にケースが入っています。それを取り出して下さい」  詐欺師の言葉の通り、冊子の隙間に小さなケースがあった。  冊子の隙間でこんなの入っているのに気づかなかった。  筆箱位だがとても薄い。  振ってみる。  カラカラと音がする。    「開けてください」  詐欺師の言葉に開ける。  そこに入っていたのは、薄いナイフだった。  刃は白く研ぎ澄まされ、良く切れそうだった。  でも片手で掴める華奢なもので、凶器には向かない。  冊子の間にナイフの入った箱。  多分、イベント会社の職員ならこれに違和感を覚えるはずなので、この会場の人間全てが持っているこの封筒にナイフのケースを差し込んでいったのは情報屋なんたろうな、と思った。  泣きながら愚痴り、山積みの封筒に一つ一つ箱を差し込んで、夜通し作業している情報屋が見えた気がしたが、多分間違っていない。  絶対に詐欺師は手伝わない。  ・・・あんた本当に大変だな。  なんか泣けた。  皆不思議そうにそのナイフを手にしていた。  「これから行うことには勇気が必要になります。でも、あなた達ならそれを乗り越えられると信じています」  詐欺師が微笑みながら言った。  まさか。  俺は華奢なナイフを見つめた。  これでさせる気か。  こんなナイフで人を殺すには・・・相当の努力が必要だ。  簡単には死ねない。  上手く頸動脈でも切れればいいが、そんなことは簡単ではない。  届かない肉を何度となく斬り、躊躇い傷や、本能的な防御創をいくつもつくり、大量の血を流してながら死んでいく。    「ナイフを握って下さい」  詐欺師の声が響きわたった。  詐欺師は本気だった  「・・・まずはあなた達の指でもいい、手首でもいい、何なら腕でもいい・・・それを私に捧げて下さい」  空っぽの自分のスーツの左腕を揺すりながら、いたずらっぽく詐欺師は言った。    詐欺師の左腕はない。  あの人が奪ったから。  「私の左腕はないんです。どうか・・・私にあなたの左手をくれませんか?」  詐欺師は言った。  それは冗談のように聞こえた。  ピッ    俺の顔に暖かなモノが飛んだ。  拭う。  それは血だった。  隣りの女の子が自分の手の平にナイフにを突き立てていたのだ。  女の子は笑顔でそうしていた。  詐欺師に指をおくるために。  血の匂いが一瞬で会場に立ち込めた。  悲鳴は一つも聞こえなかった。  誰もがナイフを左手や腕や手のひらに突き立てているのに。  皆笑顔だった。  嬉しくてたまらないのだ。  詐欺師に何かを捧げることができるのが。  俺は思った。    なる程。  これなら自分の子供でさえカルトの教祖に捧げるはずだ。  人間とは・・・そういう生き物でもあるのだ。  どくどくと溢れる血の中、人々は華奢なナイフを力の限り突き立てていた。  美しいがそのナイフで斬るのには時間がかかるし骨は斬れないだろう。  でも人々は努力するのだ。  何度も何度も肉に刃を突き立てながら。  恋する詐欺師に捧げるために。  ザクッ  ナイフが肉に食い込む。  痛みに止まりそうになる手を、歯を食いしばりさらに奥へとねじ込む。  目を見開き、苦悶の表情で。  溢れる血、喉の奥で呻く声。  それでも体重をかけてナイフを押し込んでいく、人々。  ・・・もう充分だ。  「全員の洗脳を確認した。作戦に入る」  俺は盗聴器を通じてあの人とスーツに言った。  さあ、こんな茶番は終わらせよう    

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