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冷たい背中

今回は長かったはずのGWも残すところあと二日。 夕方のだれもいない校庭を見るのも明日が最後なのだと思うとあっという間だったように感じる。 タバコも切れたし、そろそろ帰ろうと窓を閉め、保健室を後にした。 職員駐車場に向かうと車のキーを回して校門に向かった。 「あ」 校門を出てすぐの下り坂で少し懐かしさも感じる柔らかそうなブロンドの髪。 GWだと言うのにちゃんと制服を着ているところを見ると学校に寄った帰りなのだろう。 短くクラクションを鳴らすと、こっちに気が付いた見たいで驚いた表情で振り向いた。 その、振り向いた姿に俺の方が目を疑った。 「せんせーどうしたの~。GWなのにー。学校いたなら保健室よればよかったよー。お土産あるよー」 かわらないへにゃへにゃとした笑顔で駆け寄ってくるそいつは、右の額や頬には大きなガーゼや、口元には絆創膏からはみ出したアザ。よく見ると、袖から除く細い手首にも包帯が不器用に巻かれていた。 「こっちの台詞だっつの。どうしたんだよ」 「あのねぇ、転入するときの書類で親からのサインに不備があったみたいでそれを今回イギリスでもらってきて職員室に届けに今日来たのー」 いやなんでGWなのに学校にいるかとかではなく。 わかっていてはぐらかすアンジェリーにも少しいらっとする。 俺の表情で気付いたのか、いつもと同じようにアンジェリーはへらりと笑った。 「このケガ?階段でおっこちちゃったー。ダサいから言いたくなかったのにー。超いたかったよー」 嘘だとすぐわかった。 職業柄いろんな怪我を見るけど、この怪我の仕方は明らかに階段で落ちたような傷とは違う。 人為的な傷だ。 「とりあえず、車乗れよ。手当ても自分でやったんだろ?下手すぎ」 「えっいいよー。大袈裟にしちゃったけど実際はそんなひどくないし」 「いいから、乗れ。命令」 声を低くして言うと、アンジェリーは困ったように笑いじゃあ、お邪魔します。と、遠慮がちに助手席に回った。 「どこにいくの?」 「俺ん家。とりあえず、その不格好な手当は治してやるよ」 「あはは。こーゆーのめんどくせぇとか言いそうなのにー。なんだかんだ言ってせんせーは仕事熱心だよねー」  「いつも仕事熱心ですよ先生は」 変わらず笑うこいつの声が懐かしくて、思わず俺もフッと笑ってしまった。 「どうだったよ。イギリスは」 「楽しかったよー。久しぶりに向こうの友達とも会えたしねー」 嘘つけよ。全然楽しかった顔じゃねぇ。    あの雨の朝、俺の背中に踏み込んできたアンジェリーを突き放しておいて自分は踏み込もうとするなんて、俺らしくも無い。 教師だからだと、どこか自分に言い訳をして普段なら絶対他人をあげたりしない自宅にアンジェリーを招き入れた。 そういえば蒼羽以外を家にいれたのは初めてだ。 アンジェリーは家に上がると、キョロキョロすることもなく、いつもの保健室にでもいるようにゆったり笑った。 「一人暮らしなのにいい家に住んでるねー。オレの家が狭すぎてせんせーに見せたのはずかしいんだけどー」 「大人ですから。そこのソファーに座ってろ」 「どもー」 家の救護セットを使うのも、初めてかもしれない。 中はすべて新品で問題ないのを確認して、手を水で洗いアルコールで消毒した。 「オラ、脱げ」 「えっちー」 「無理矢理ひんむかれたくなかったらその下手くそな手当ても全部取れよ」 けらけらと笑うアンジェリーを軽く小突くと、「ほんとに大したことないのにー」と上着を脱いだ。 その体を見て、思わず息を飲む。 右頬の顎まで隠れていた大きいガーゼは赤黒く変色したアザや、前髪で隠れていた額からは血のあとが残る包帯。手首には押さえ付けられたようなアザ、他にも痛々しくいろんなところにアザが残っていて、言葉につまった。 「大したことだろ…」 「ギャグ漫画みたいなこけかたしたからなぁ。えへへ。お恥ずかしい」 感情のこもらないアンジェリーの乾いた笑いに少し、胸が詰まった。 だから、もうほぼ的中してるであろう言葉はすんなりと口からこぼれた。 「お前さ、向こうで家族のだれかに虐待されてるだろ」 アンジェリーは、言われるとわかっていたように、「なわけないじゃん」と、一笑した。 その姿すら痛々しい。 俺がこいつくらいのとき、笑えていただろうか。 ___早く、よくなるといいのにね。 背中の傷を見られたとき、アンジェリーは深く聞くことはせず一言優しく呟いて悲しそうに笑った。 もう何年も前の傷で今は俺自身、当時の痛みや感情なんて思い出すこともない。 それなのに、今は自分の今現在の傷を大したことないと笑う。 他人に興味を持つことなんてあり得ないと思っていたけれど、あの時、背中に触れた指があまりにも優しかったから、自然と口が開いた。 「…今からいうのは、軽く聞き流せな。 俺の母親は、一度浮気してさ」 蒼羽しか知らない俺の過去が、不思議なほどこいつの前だと言葉になった。 「父親はすごい愛妻家で。盲目的に母親を愛しいて。母親も父親も全部俺の実の父親、浮気相手が悪いってことで落ち着いたんだけど。育ての父親にはまぁまぁきつく当たられたよ」  アンジェリーは小さく、うん、と相槌をうった。 「っつっても、中学からはまぁまぁ体もでかくなって、家にいることも少なかったし、建前上はいい愛妻家の優しいお医者さんだったから、今はなんの不自由もなく普通に育ったし、仕事について独立すると、そんな昔もあったな。くらいになんだよ。でも、当時を思い出すと、それなりにしんどかった気もする」 話ながら、アンジェリーの傷を一つ一つ消毒して丁寧にガーゼを張り直した。 「時間が多少は解決することも確かにある。だからって、お前が今を我慢する必要はない。へらへら笑って大丈夫だってみんなに虚勢をはる必要はないんじゃねぇの。頼られたら、それなりに助けになると思うけど」 俺は少なくともこいつの年のころは女をはべらかして、適当な恋愛ごっこをして、気楽に生きていたと思う。 俺を見て頬を染めてよってくる女は自ら体を委ね軽々しく「アイシテル」と、安っぽいことばをいう。 当時、幼い俺が嗤ってる気がした。 愛情なんてもの、今さら知りたいとも思わない。 父親の母親への愛も、ただの自分の所有物をとられたくないという安っぽいプライド。 愛してると、一度でいいから親に言ってほしかった。毎日泣いていたガキの頃。 いざ、いろんな女から言われてみると、そんな愛なんて下らない感情が本当にあるんだと、そしてそれが綺麗なものなんだと押し付けてくるものが酷く濁った何かに見えた。 そんな汚い押し付けをしてくる奴らの捌け口になってやる必要なんてない。 人の痛みにばかり敏感なこいつはもっと自分を気にかけたらいいと思った。 しばらく続いた沈黙を、アンジェリーがゆっくり口を開き終わらせた。 「時間が解決するって言ってもね。せんせーが傷付いたことに変わりはないと思うよ」 俺のことかよ。 拍子抜けしてしまう。話の流れ的に俺のはものの例えでお前のことだと言うのに。 「せんせーは優しいね。子供は親を選べないけど、それでも自分の気持ちの消化の仕方を見つけて、それを人のために話せるから。親から、たとえ愛情が貰えなくても、そんなせんせーだからいろんな人から好かれて愛されるんだね」 「………お前は器用なのか不器用なのかわかんねぇやつだな」 なにが、愛されてるだよ。 根っからのお人好しというか、本当に心優しい奴なんだろう。 こんな華奢で小さい体じゃ高校生と言えどまだまだ大人の力には敵わないんだろと、細い体を見て思う。 なぜわざわざ殴られにイギリスに行くのか不思議でならない。

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