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暗転

「…………父さんに電話したんだ」 少しの沈黙の後、ようやく口を開いたリチェールの声は緊張したように震えていた。 顔は、俺の服に埋めたままで上げようとしないから、多分見られたくないような顔をしてるんだろう。 「電話?お前から?」 「そう。もうイギリスには帰らないって。 そしたら学校を退学にしてやるって言われたから、そんなことしてもあんたらがやって来たこと全部話して家には二度と帰らないって言った」 少し意外だった。リチェールには親に自分から連絡をする度胸なんてないと思っていた。 ああ、それで高時給のバイトの話に飛び付いたのか。 「それで相手は?」 「言い分はわかったって電話切られて、それっきり。電話したのもつい今日だし」 やけに圧をかける言い回しをするな。 相手はどれだけリチェールが強がってポーカーフェイスを張り付けていても、リチェールが怯えてることをよくわかってるんだろう。 これは大人が話をつけることだと、前回あれほど伝えたのに、何を自分で傷口開く真似してるんだこのバカは。 「リチェール。親父さんに歯向かえたのは偉いけどな、相手がヘタに逆上してこっちに来たらどうするつもりだった?1人であれこれ決めて、何かあったらどうするんだよ」 頼られなかったことが歯痒くてつい責めるような口調になってしまった。 けれど、リチェールはぎゅっと拳を握ってふるふると首を横に振った。 「……学校退学にさせられても、イギリスには帰らなきゃいけないことになっても、オレはちゃんと全部自分で解決する」 こいつは、またこれか。 さっさと勝手に調べて親に電話すればよかった。 あんなことがあったばかりで、リチェールの心に負担をかけないよう日にちをあけたことが裏目に出てしまい内心舌打ちをする。 震えてる肩を見て、泣いてるのかとに背中に手を回そうとした時、リチェールが顔を上げて大きなエメラルドの瞳に俺を映した。 「一時的に離れなきゃいけなくなっても、全部精算して、今度は自分の力で日本に戻ってくるよ。 そしたら、可哀想だからとか、問題児だからとかそう言うのなしで、オレを見て。 その時、オレはせんせーにもう一回告白する。 突き放してもいいから、せんせーの答えが聞きたい。 フラれたって、もうオレ、諦める気ゼロだから」 必死な顔に、思わず押し黙ってしまう。 なに。こいつが親のことに向き合う気になったのは、自分が嫌になったからとかじゃなくて、そんなことのために………。 くだらない。 そう思うのに、その純真さに、心臓がどくんと大きく跳ねた。 掴みどころのないヘラヘラしたやつかと思えば、その中身は傷だらけで。 弱々しいと思えば、不意にかっこいい。 こんなやつ、今までいただろうか。 「……ちゃんと正直に話したから、この間みたいに悪者になって、我慢して好きでもないオレに触ってなんとかしようとしてくれなくていいよ。もうそういうことしちゃダメ。せんせーは優しすぎるから自分こともっと大切にしてね」 最後に、小さな両手に右手を握られそっと離される。 自分は慣れてるから好きでもないやつとヤることなんて平気だと言ったリチェールを押し倒した日。 泣きながら、こんなことさせてごめんなさいと言ったリチェールは震えていて、あんな状況でもまず人のことを本意を汲み取ろうとする痛いほどの優しさがこの子を表してるようだと思った。 「だからね、卑怯な気するから、明日のお出かけは鼻から手が出るほど行きたいけど、我慢する。オレが全部ケリ付けたらその時、ちょっとでもオレとのお出かけ楽しそうだなって思ってくれた時、どっか連れてって?」 喉から手だろ。 なに本気で寂しそうな顔してボケかましてんだ。 ふは!と吹き出してしまった俺を、リチェールがキョトンと不安そうに首を傾げる。 「え、なになにー?なんかオレ面白いこと言ったー?」 「喉から手だろ。鼻から手ェ出してどうすん……っはは!だめだ。お前よりにもよってなんで鼻と間違えたんだよ」 「の、喉から手ェ出したってどうするって話だろ!日本の諺ややこしいんだよ!」 素で間違えていたらしく、顔を真っ赤にして言い返してくるリチェールが可愛くて仕方ない。 恥ずかしさを誤魔化すように、忘れてと俺を揺さぶってくる手を掴んだ。 「はー。いいよ。笑わせてもらったし、明日どっか連れてってやるよ」 「だから、そーゆー同情みたいなのは……っ」 「俺がリチェールと遊びたいから。だめか?」 俺の言葉にリチェールが固まる。 それからまた茹で蛸のように赤くした顔を隠すように抱きついて来た。 「うー。ずるい!せんせー、ずるいこと言ってる自覚ある?」 「多少な」 「本当、ずるい!ずるいけど、好きぃー」 「はは。知ってる」 抱きつくリチェールの背中を軽く2回撫でる。 そもそも、俺は愛だの恋だのくだらないと思うし、それは決して綺麗な感情ではなく薄汚いものだと思っていた。 その感情が向けられて、不快だと思わなかったことは初めてだった。 不快どころか、そばに置いておこうとするなんて、本当にこいつと会ってからの俺はどうかしてる。

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