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暗転

せんせーは喫煙所にタバコを吸いに行って、オレは買ってもらったアイスティーを飲みながら木陰のベンチで待っていた。 喫煙所はガラス張りになっていて中がよく見える。 せんせーが入った途端、あっという間に大人気スポットになって、ぎゅうぎゅうだ。 あ、なんか女性に話しかけられてる。 逆ナンかなぁ。 今楽しいのはオレだけで、やっぱ女の子と遊びたいって気分なっちゃったらどうしよう。 それを止める資格なんてないし。 呼び止めることすら、せんせーってここで呼ぶだけでもちょっと問題だもんね。 オレが、大人だったらなぁ。 そんなことを考えながらベンチの背もたれに体を反らせ空を仰ぐと、反転した男の人の顔が覗き込んできた。 「よっ!ルリ。偶然だね」 「っ新野さん!」 顔の距離の近さに驚いて一瞬でも喉に言葉が引っかかった。 正直めちゃくちゃ後ろ髪を引かれながら惜しいと思いつつバイトを断ったばかりの相手、新野さんの登場に慌てて椅子から降りた。 「なんでここにいるんですかー」 「絵の題材探しに人の少ない郊外までドライブ中。ルリはあの親戚の人とデートかな」 仲良いね、と含み笑いで言われ、新野さんは真っ黒な目をまるで何かを見透かすように細めた。 「あの、昨日は一度お受けしたのに、絵のお話断ってしまい本当にすみません」 話を逸らすように、改めて昨日のことを謝罪する。 昨日、断ると「すぐに結論出さないで。持ち帰って検討だけでもして」と押し切られてしまったけど、やっぱりせんせーにバレて反対された以上、話を受けるわけにはいかなった。 正直、バレなきゃいいやって気持ちも多少あるけど、今日の外出にまんまと乗っておいてそれはさすがにずるい気がするし。 「いやいや、謝らないで。俺まだ諦めてねーし。ていうか慎太郎が心配してるようなやらしい絵じゃないからね。ちょっと俺の絵、連れの人待ってる間でいいから見てよ」 肩にかけていたバックからタブレットを取り出し、オレの肩を掴んで立ち上がったばかりのベンチに座らされた。 見せられた絵は、風景画がほとんどでたまに人物も入り込んでいるけれど、全体の空気のような入り方で、どの絵も綺麗なのに物寂しい雰囲気だった。 ほぼ全裸のような格好で描かれた女性すら、いやらしさは微塵も感じない。 まさしくそれは、美術だった。 ……この人、本当にすごい腕前なんだな。 正直、画家として有名なことは、聞いていたから知っていたくらいで、お店で飲んでおちゃらけてる人物が描いたとは、想像もつかないほどだった。 「すごいですね…。こんなの見たらますますオレじゃモデルなんて務まらないと思うんですけど」 つい夢中でタブレットをスライドさせて、次々と作品を見る手が止まらないまま尋ねた。 「俺の絵見たらわかるだろ。たとえば、ルリの親戚の彼、誰が見ても圧倒的に美男だよな。でも彼は華やかすぎて俺の絵には合わない。 ルリはほら、顔立ちは整ってるけど、薄幸の美人って感じじゃん。そう言うのがいいんだよ」 新野さんがどこか冷たく笑う。 ハッコーの美人? ハッコー? 発光、発行、発酵……どの字だろう。慣用句か? 初めて聞く日本語に思わず首を傾げる。 「ルリは不幸がよく似合うよなってこと。俺の絵の世界観にぴったりだろ」 そう言って、オレの左頬を撫でながら髪を耳にかけられる。 笑ってるのに、その表情はどこか無機質な作り物のようでゾッと触れられたところに鳥肌がたつ。 「ほら、そういう表情似合ってる」 ああ、そうだ。 この人のオレに向ける笑顔はどこか蔑む色が滲んでるんだ。 「………不幸が似合うとか似合わないとか、日本で言うワビサビ?みたいなやつですか?」 「ちょっと違ぇかな」 「んー、ハッコーの意味はよくわかりませんが。オレが不幸に見えるなら新野さん大間違いですよ」 頬に添えられたやんわり外しながら、自信を持って笑ってみせた。 「オレ、今日世界一幸せですから」

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