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暗転
車で着いた先は、駐車場スペースだけがある森の中。
緑があるところって言ったから森ね。
穴場なのか、ちゃんと駐車スペースは広くあるのに車を停めているのは数台だけだ。
エンジンを切って、車から降りたせんせーに次いで俺も車から降りた。
もうすぐ夏休みが始まる。
今だって、もう毎日クラクラするほど暑いのに、山の中だからか、ここは空気が澄んでて涼しい。
「いいところだねー。ここどうやって見つけたの?」
結構山の中に入り込んでるし、ひと気のなさから人気スポットというわけではなさそうだった。
「学生の頃、バイク走らせるのが好きで、よく蒼羽たちと夜な夜な走り回ってたからな。その時見つけた」
「えー?せ……んさんもしかして元ヤン的なー?」
近くに人がいるというのに、またせんせーと言いかけて、噛んでしまう。
「プライベートでは千でいい」
ほら、そういうの。
期待しちゃうんだってば。
オレばっか振り回されて、悔しい気持ちはありつつもやっぱり嬉しい。
「はい。ありがとう千さん」
素直に笑ってお礼を言うと、せんせーはくしゃくしゃとオレの髪を撫でるだけだった。
駐車場の脇に、ガードレールがない場所があり看板が立てられている。石段は雨の日滑りやすいので注意してください、だって。
覗いてみると、下へと続く石段があって、奥からは明るい笑い声が響いていた。
「ここの石段降るんだけど、足いてぇだろ。ほら」
自然と差し出してくる手を、握っていいものなのか一瞬躊躇ってしまう。
オレ、臨海学校で足捻ったあともずっと3階の自宅に帰ってたんだけど。
こんな傷、もう大したことない。
それでも滑りやすいって注意書きもあったし、手を繋いでいれば千さんがこけそうになっても受け止めることだってできるわけだし。
そんな言い訳を自分自身に言い聞かせて、そっと褐色の手に自分の手を重ねた。
「足はもう痛くないけど、手繋げるの嬉しいから甘えちゃうねー。ありがとう」
石段を降りていくにつれ、生い茂る木と木の間からなにかがキラキラして見える。
やっと視界が開けると、そこには緩やかな川が流れていて、キラキラと太陽を反射させていた。
「わぁ川だ……!」
家族連れや友人グループが何組かいたけれど、このハイシーズンで珍しいほど人は少なく、川の水は綺麗に透き通っていた。
人がそんなにいなくて、緑も、川もある。
オレがなんとなく言ったこと全部叶えてくれるなんて。
「千さん、オレ靴脱いで川に入っていい!?」
「いいけど、転ぶなよ」
「はーい!」
履いていたスポーツサンダルを脱ぎ捨てて、ボトムをまくりあげる。
川に足を入れると、思ったより冷たくて一瞬入れたばかりの足を引っ込めてしまいながら両足をつけた。
海と違って木々に囲まれ木陰があるからか、水温は上がってないし、ベタベタもしなくて、気持ちいい。
イギリスでも夏になればゆーいち達と川遊びに行ったなぁ。
懐かしい思い出が蘇りつい綻んでしまう。
自然の中にいると、オレの悩みなんてほんの些細なことで、全部うまくいくんじゃないかって気になってくる。
まるで川の水がオレのどろどろとした黒い何かを洗い流してくれてるみたいだ。
「千さーん!たのしいー!」
名前で呼んでいいって言われたことが嬉しくてつい木陰にいる千さんを呼んで手を振った。
千さんは穏やかな表情で軽く手をあげて応えてくれる。
ほらね、オレはやっぱり世界一幸せだ。
ハッコーなんかしてたまるか。
ていうか、結局ハッコーってどの字なんだろう。正しい意味は?
ざぶざぶ川の中を歩いて、千さんのいる木陰に戻った。
「リチェールがはしゃいでるところ初めて見た」
「えー?そう?割と千さんといるときはいつもはしゃいでるけどね」
すとんと横に腰を下ろすと、心地いい風が流れて、少しだけ目を閉じた。
「…あ、そういえば。千さん、ハッコーてどんな字の熟語がある?人に対して使うので慣用句とかあるかなぁ?」
「慣用句なんかあったか?はっこうならいくつか字はあるけど。どういうシチュエーションで言われたんだよ」
「んーーーと、ハッコーの人?みたいな?幸せじゃないことが似合ってるねーみたいな」
ハッコーの美人だと言われんだけど、つい自分で美人なんて言葉使うのには躊躇ってしまった。
オレの言葉に、千さんは少し考えたように黙ってタバコの火を携帯灰皿で揉み消した。
「………濃い薄いの薄いって字に、幸せって字で薄幸。不幸せとか運がないって意味。あの画家ふざけたこと言いやがって」
「オレ、新野さんに言われたって言ってないけど」
「絶対そうだろ。じゃなきゃなんでこのタイミングで聞くんだよ」
それはそうだ。
ここに向かうドライブ中とかたくさん話す時間あったもんね。
薄幸、ね。
幸せでコウはわかるけど、薄いって字をハッて読むか?
「あ、博識とか希薄とかはくって読むか。いやハッて発音ではないよね?」
「むしろよく博識とか希薄とか知ってるな」
「そりゃ日本に来るまで勉強しまくりましたから〜。でも書き順めちゃくちゃだってゆーいちに言われたよ」
「日本人でも結構書き順なんて曖昧だよ。読めたら十分」
「ふふ。それ千さんの立場で言うかなぁ」
先生なのに。変なの。
でも、そんなところも好きだな。
「オレ、さっき新野さんに世界一の幸せ者ですよって答えたんだ」
オレの言葉に千さんは穏やかに「そうか」とだけ応えて、また頭をわしゃわしゃと撫でた。
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