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暗転

_________ 「ついたぞ」 マンションの前で車が止まる。 楽しい時間って本当にあっという間だった。 体感で言えばついさっき家を出たはずなのに、もう周りは薄暗かった。 「千さん、今日は一日ありがとー。すごく楽しかったー」 「ああ」 「じゃあまた月曜日にねー」 「リチェール」 ドアを開けようと手にかけた瞬間、呼び止められて振り向く。 千さんは右手はハンドルのまま左手を軽く広げていた。 「今回夏休み帰らないって親父さんに話したこと。よく勇気出したな。ご褒美」 「へ?」 ご褒美? よくわからず戸惑っていると千さんが 「なに?いらねぇの?」と意地悪く笑った。 「だ、抱きついていいの?」   「普段は自分から引っ付いてくるくせになに遠慮してんだ」 ふっと笑われ、心臓がどくんと跳ねる。 そのまま千さんの広い胸に飛び込んだ。 オレの体を大きな腕がすっぽり包んでくれる。 「お前はよく頑張ってるよ。リチェール」 穏やかな声が耳に届いて、心臓ばくばくしてるのに、なぜだか涙がでそうになった。 「守ってやるからちゃんと頼れ。隠すな」 「うん…」   「お前は俺のなんだろ」 「うん…」 ぎゅっと、千さんに回す手を強く絞める。 もう何度も弱ったときは抱き締めてもらっていたけれど、こうして改めて抱き合うのは初めてかもしれない。 千さんのタバコと香水が混ざった匂いやっぱり安心する。 「うー、千さん、すきぃー」 「知ってるよ」 「今度は何したらまたぎゅーってしてくれるー?」 「調子乗んな。滅多にやらねぇよ」 顔をあげて見た顔は穏やかに笑っていて、勘違いをしてしまいそうなくらい優しかった。 「いいもん。勝手に抱きつくしー」 「はいはい」 こんなことされたら余計に、離れがたくなっちゃうのに、千さんはずるい。 もう離れる気なんて、少しも残ってないけど。 名残惜しい気持ちを押し込めて、今度こそちゃんと車から降りた。 「階段あがるの大丈夫か?」 「大丈夫大丈夫ー。足捻ってからも毎日この家に帰ってるんだってば。千さん心配性すぎー」 「ひっくり返るなよ」 「はーい。今日は本当にありがとう。気を付けて帰ってね」 「ああ。お前も今日はバイト休みなんだろ。早く寝ろよ」 千さんにばいばいって手をふってると、しっしっと手で払われたので階段を上がった。 3階だからすぐなんだけど、足をかばってゆっくり進む。 まだどこか夢心地で、幸せな気分だった。 『おかえり。 ずいぶんと遅い帰りじゃないか』 それをぶち壊すような声が聞こえて、信じられない気持ちで顔をあげる。 『……なんでここにいんだよ』 日本ではもうほとんど聞かなくなった、英語。 そこには、父さんが立っていた。 『お前が、イギリスに帰らないとか訳のわからないことをいうからだろう…?』 ゆっくり近付いてきて思わず後退る。 足に鈍い痛みが走った。 だめだ。 今逃げようとしても、この足じゃ。 いや、逃げるってなんだよ。 オレはもう小学生の頃とは違う。 喧嘩だって強くなった。 こんなやつ、ぶん殴ってやる。 『ほら』 『………っ』 そう思っていたのに、腕を捕まれた瞬間、まるで冷たい手に心臓を掴まれるような感覚で体が凍りついた。 手に持っていた鍵を奪われ、乱暴に引っ張られる。 『お父さんと話し合いをしよう』 自分のことを父さんなんて、もうずっと呼んでなかったくせに。 いつも会ったら殴って犯して捨てていくだけだったくせに。 そう言いたいのに、手が震えて声が出なかった。 なんだこれ。 今まで、怖くなかったのに。 なんとも思ってなかったはずなのに。 _____リチェールは汚くねぇし、無理矢理犯されることにもなれてねぇだろ。強がるな。 大切なひとの顔が浮かんで、息を飲んだ。 『……離せ。話すことなんてない』 手を思いっきり振り払ったつもりだったけど、強く握られて振りほどけなかった。 振り返った父さんの目は血走っていて、一目で恐怖が走った。 『なんだ……その口の聞き方は……!』 瞬間、思いっきり手を引かれて、頬に衝撃が走った。 バン!と大きな音を立てて、壁に体がぶつかる。 殴られて飛ばされるとか、どんだけ力ないんだよオレは。 情けなくて、手が震えた。

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