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逃避
新野さんの家にきて3日目。
月曜日、学校にしばらく休むことを伝えようと電話をかけた。
「はい、南和高校、月城です」
まさか、よりにもよって千さんが出るなんて思っていなくて、ドクンっと心臓が大きく跳ねる。
たった一言声を聞いただけで、さっきまで空虚だった心がぎゅっと締め付けられた。
「あ……2年1組のアンジェリーです。担任の佐倉先生はいますか」
…………だめだ。
声、震えるな。
「リチェール?どうした?」
聞かないで。
今、あなたに話せることなんて何もない。
「千さ……っ」
それなのに、未練がましいオレの心はつい助けて、と名前を呼びそうになって口を手で押さえた。
オレ、あんな風にカッコつけてさ、親と縁を切るんだって豪語して、褒めてもらったのに。
こんなこと、知られたくない。
「おい、リチェール。なにかあったのか?」
心配そうな声が届いて、ぎゅっと唇を噛んだ。
「……ううん、ごめんね。風邪ひいちゃって声出すのきついんだー。今日お休みもらおうと思って、その連絡」
どうにか、声だけは明るくできただろうか。
「熱は?」
「ちょっと高くて。しばらくお休みもらうかも。また熱が下がったら改めて連絡しますって佐倉先生に伝えてもらっていい?」
「それはいいけど。一人暮らしだろ。大丈夫か?帰り家に寄るから何か食えそうな物とか欲しい物メッセージ入れとけよ」
そんなこと、今言わないで。
余計に泣きそうになる。
また、こういう事をダシに千さんの同情を買うような汚い真似、もうオレにさせないでよ。
「食欲はあるし、全然大丈夫だよー。うつるといけないから来ちゃダメ」
「………お前何か隠してるだろ」
びくっと肩が震えた。
電話でよかった。体が震えようと、涙が出ようと、この人にそれが見えないのだから。
「なにがー?あはは。さぼりじゃないもん。本当に熱があるんですー。じゃあオレ、ちゃんと連絡したからね。失礼しまーす」
「おい、」
まだ何か言いかけていたのは、聞こえたけれど、電話を切った。
もう、限界だった。
「……っふ……うっ……」
ぼろぼろ溢れる涙は足元にシミを残していく。
大好きだった。
本当に、何より、誰よりも大好きで、一番そばにいたかった。
叶わなくても、自分の力で全部精算して、正面から好きだと伝えたかった。
………こんな汚れた口で、あなたを愛してると言えるものか。
「今の、月城さん?」
いつの間に起きたのか、聞こえた声に涙を拭って振り返った。
目が合うと、新野さんは楽しそうに笑って「おはよう」と挨拶する。
「今日も一段とひどい顔してるな。また寝れなかったの?俺としては不幸味増していいけど、ここで死ぬのはやめてね」
「……死にませんよ」
「へぇ、今にも死にそうなのにな」
この人の、こういう発言にもいい加減慣れた。
本心なのかどうなのかわからないけど、こういうオレを、楽しそうに笑う顔を見てると少しだけ居場所を与えられた気になる。
「どうせ今日もご飯食べないって言うんだろ?ほら脱いで脱いで。続き描くよ」
この人はオレに軽蔑の眼差しも同情の眼差しも向けない。
ひたすら自分の作品を通してしか映さない無関心さに今ばかりは救われる。
「俺が幸せになりたいってやつのツラじゃないって言ったの覚えてる?」
昨日塗った塗料が乾いたか確認して、またペタペタと色を重ねる音だけが響く中、珍しく新野さんが口を開いた。
「……はい」
「幸せになりたい奴はちゃんと幸せになるための手を自分から掴もうとするんだよ。泥臭くてもな。ルリのそれは我慢じゃなくて甘えだよな」
思い当たる節あるだろ、と嫌味な笑顔を向けてくる新野さんに、何も答えず目を逸らした。
ああ、そうだよな。
あの人の手はオレにとって幸せになるための手だ。
じゃあオレに手を掴まれたあの人の心は無視か。
……そんなことしたくて、好きになったんじゃない。
ただ、幸せになってほしいって、胸が痛いほど思う。
千さん、あなたの手は人を幸せにするためにいつも差し出してくれるけど、それを自分を幸せにするために伸ばしてほしいんだよ。
散々甘えてしまったけど、せめて引き際くらいちゃんとわかってる。
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