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腕の中

え? いや、オレ普通に家に帰れるけど。 誰呼んだんだろう。草薙さんとか? 「待って、新野さん。オレ……」 「はいはーい。今出ます」 断ろうとしてるのに、オレの声なんて聞こえていないようにぺたぺたとスリッパを鳴らして玄関に向かっていく新野さんを慌てて追いかける。 あ、待ってオレ今、人前に出れる格好じゃない。 外に一歩も出ないでこの家の中で過ごしていたし、絵が乾いたらすぐ描き始める新野さんに合わせて、服は借りたTシャツを一枚着ているだけだった。 そもそもここに来たのも、急だったわけだしあの家に帰りたくなくて、その日履いてたズボン1着しか持ってなかった。 しかも、それは今洗濯中。 パンツはさすがに買ってきてもらったけど。 とても人前に出ていい格好じゃなくて、その人が入ってくる前に着替えなきゃと思うのにまだ洗濯が乾いてなくてワタワタしてしまう。 玄関からガチャとドアが開く音がして、とりあえず脱衣所に隠れようとドアに向かうと、ドカドカ早足で廊下を進む音がしてリビングのドアが開いてしまった。 相手の顔を見て、どくん、と大きく心臓が跳ね上がった。 相手も、オレを見て顔を強張らせた。 「……お前こんなところで何してんの」 心底怒ってる時の低い声に、息が詰まって何も言えない。 今、一番会いたくない人が立っていた。 「……な、んで」 ここにいるの? そう聞きたいのに声が掠れてうまく出ない。 千さんの後ろでひょこと顔を覗かせた新野さんがごめんね、と手を合わせた。 「いや、さすがにさぁ、ここにいる間ほとんど寝ないし、何も食べたくないって言うし、ほっといたら衰弱死しそうじゃん。 保護者知ってるなら連絡するって」 そんなに簡単に死なないよ。 何でよりにもよって、この人なの。 ていうか、連絡先知ってたの? ……ああ、草薙さん、蒼羽さん経由か。 それでも、新野さんはもっと他人に関心がないと思ってたのに。 「俺はルリに薄幸の美人って言ったけどさ、不幸になってほしいとか思ってないよ。自分を本当に助けてくれようとしてる手を振り払う真似はすんなよ」 やめてよ。余計なお世話だよ。 こんなことにまた巻き込むわけにはいかない。 この人に話せることなんて何もない。 何一つ、知られたくないのに。 スタスタとオレに近づいて来て、バイバイと笑う新野さんについ縋るように見上げると、千さんにむかって背中を割と強い力で押し出された。 「はい、じゃあ喧嘩なら外でやって。じゃあなルリ。完成したら個展に飾るし見に来いよ」 突き飛ばされて思わずコケそうになるのを、千さんの逞しい腕に抱き止められる。 この人のタバコと香水の混ざった匂いに、一瞬で心が揺さぶられた。 「うちのがお世話になりました。失礼する」 「はいはーい。お世話なんてしてないけどね。家事とかやってくれて助かったよ。はい、これルリの荷物。あ、洗濯中の服どうする?今袋にいれて渡す?」 「新しいもの買うので、捨てていただいて結構です」 「あはは。りょーかい。じゃーね、ルリ」 やだ。千さんと二人きりになりたくない。 まだ上手に誤魔化せる自信がない。 思わず離れようとするオレを右の肩に担ぎ上げた。 「う、わ…….っ!」 急に高くなった視界に、つい千さんにしがみついてしまう。 この人、崖から引き上げてくれた時も思ったけどやっぱり力強い。 「にいのさ……っ」 「リチェール」 つい、新野さんに助けを求めるように見上げると、千さんの低い声に遮られた。 「これ以上怒らせるな。黙ってろ」 その静かな迫力にびくっと体が震えてもう何も言えなかった。

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