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腕の中
千さんはもう一度オレを抱きしめて、それ以上は何も言わずに、車を降りた。
七分に折って羽織っていたシャツアウターを脱ぐと、オレに腰に巻くよう渡してきた。
そうだった。
オレ、ズボン履いてないんだった。
うわ、危ない。オレさっき頭の中別のことでいっぱいで普通に外に出ようとしてた。
一応、服が新野さんのものでオレにとっては大きくワンピースのように見えなくもないけど。
「女顔だし、そういうファッションにしか見えないけど、一応巻いとけ」
さっきオレの話を聞いて、一瞬顔を強張らせてから、抱きしめられて体を離した時には何を考えてるのかわからないような無表情で、ただ静かな怒りなのか、そんな感情があるような気がして、これ以上オレも何も言えずに静かに従った。
腰に巻くと、そのまま抱き上げられ家に進む。
朝早い時間だし、この辺は閑静な住宅街の裏道だから人通りは全然ないけど恥ずかしい。
自分で歩けるよ、と言おうとしたけど、千さんの何を考えてるのかわからない表情にどこか圧を感じて、結局何も言えなかった。
自宅がある3階フロア上がると、どうしても父さんが立っていたことをつい思い出してしまう。
もちろん、あんな言葉を吐いていたくらいだから、そこにいるはずもなくホッと息をついて家のドアに鍵を刺した。
「……散らかってるけど」
ドアを開くと、当然あの日と変わらない部屋の風景に小さく息を呑んだ。
玄関から続く短い廊下の先のドアは開かれたままで、そこから見えるひどい状態に、あの日が鮮明に頭に浮かんだ。
なんとなく、千さんの顔が見れない。
「……ごめん、ガラスの破片とか飛び散ってて危ないから、ここで待っててくれる?すぐ片付けるね」
「いい。俺が片付けるからお前はうちで暮らす準備してこい」
千さんにこれを触らせるとか嫌なんだけど。
そんなことしなくていいよと口を開こうとした時、千さんの声に遮られた。
「俺がお前にこれを触らせたくないんだよ。命令。早く荷物まとめてこい」
命令、なんて言葉を使っておいて、その声はどこまでも穏やかで優しい色をしていて、なぜだか泣きそうになった。
「……ごめんなさい」
それと、ありがとうって伝えたいのに、涙声になってしまいそうで何も言えないまま部屋の奥に進んだ。
本当に千さんの家に住んでいいのかな。
言われるがまま準備しちゃってるけど。
とりあえず教材と、ローテーション出来そうな服を少し集めてボストンバックに詰め込む。
もう少し大きいキャリーバッグもあるけど、いつまでいるかわからないし、足りなければまた取りに来たらいいよね。
しばらく生活に困らないだろうものだけまとめて、千さんのいる寝室を覗くと、もうすべて綺麗に片付けられていた。
「こんな事させてごめんね」
「……いや」
相変わらず何を考えてるのかわからない表情。
こんな生々しいあとを見て、気持ち悪いって思われただろうな。
それとも面倒なことになったとかかな。
両方かも。
「リチェール。俺が今何考えてるかわかるか」
さら、と髪を撫でられ、顔を上げる。
どうしてそんなこと聞くんだろう。
なんで答えていいのか分からなくて、言葉が出ないでいると、優しく抱きしめられた。
「リチェールのこと抱きてぇなって考えてた」
「へっ?」
想像とは斜め上に行く言葉に声がひっくり返ってしまう。
何言ってるの千さん。
「リチェールの記憶を全部書きかえたい。その体に俺を刻んで二度と他の奴らに触らされたことなんて思い出さないように抱き潰してやりたい」
なにそれ。
そんなの、あなたがしてくれる必要ないのに。
普通、オレなんかに触るの汚いって思うでしょ。
「でもやらない。リチェールに嫌われたくないからな」
千さんの声は穏やかで、それでいて抱きしめる手は力強く包んでくれた。
安心して身を委ねていいんだって強引に引き寄せてくれるような言葉に、次々に涙が込み上げて止まらない。
いつか、千さんに本当に好きな人が現れて、幸せになる恋をするときはちゃんと諦めるから。
今だけは、本当にこの人に愛されてるって信じていいのかな。
そっと顔を持ち上げられ、穏やかに微笑んでる千さんと目が合う。
「ひっでぇ顔」
クッと笑って、千さんはオレの頬にキスを落とした。
そのまま唇にもキスを落とされ、段々と深くなる口付けに、身を委ねるように目を閉じた。
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