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腕の中
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千さんは何ともなかったようにあのあとテキパキと片付けて、「いくぞ」と声をかけてくれた。
何となく恥ずかしくて千さんの顔をうまく見れないまま、千さんの家に着いてしまった。
本当にここで今日からしばらく暮らすという実感が湧かない。
オレ、この人と付き合ってるんだよね?
さっきエッチもしたし。
うわ、エッチしたんだ。
「お前さっきから何考えてるか顔に出てんだよ」
「な、なにが!?」
「やーらしー」
「っ千さん!」
耳元で揶揄うように言われ咄嗟に耳を押さえて距離を取ってしまう。
千さんはおかしそうに笑って、持ってくれていたオレの荷物をソファにおろした。
「部屋が一つ空いてるから、好きに使っていい。あとこれ、お前の鍵な」
差し出されたマンションの鍵を、躊躇いがちに受け取る。
何だか、家の鍵を渡してもらえるってすごく特別なことに思えて、両手で握りしめた。
千さんの家は、セキュリティマンションの803号室。
広めの2LDKで、一部屋は寝室でもう一部屋はほぼ使うことが無いんだという。
この家に来ることは初めてじゃ無いけど、改めて色々説明してくれた。
「ベットは一つしかないから、寝るときは寝室にこいよ」
「え?オレ、ソファで寝」
「抱っこして運んで欲しいなら、ソファで寝てもいいけど」
「……ベットで寝ます」
「そんなに警戒しなくてもしょっちゅうは襲わねぇよ」
そんなこと考えてたわけじゃないのに、またさっきのこと思い出して顔が熱くなってしまう。
千さんがこういう風に揶揄ってくるのは別に最近始まった話でもないのに。
なんて言い返していいか分からなくて、つい睨んでしまうオレを千さんがくすくす笑う。
「リチェール、おいで。怪我、改めて一回よく見せてみろ」
救急箱を片手に千さんが手招きをする。
もう手当が必要なところなんてないんだけどな。
「オレもうほとんど治ってるよ?手当てとか必要ないと思うんだけど」
「俺が全部把握しておきたいだけ。いいから脱げ」
オレ男だし、多少の怪我くらい痕に残っても差し支えないし、そんなに大切にしてくれなくていいのに。
そんなこと言ってみたところで、この人は納得しないだろう。
とりあえず言われた通りに、上に着ていた五分袖のTシャツを脱ぐと、千さんが手を掴んでゆっくり引き寄せた。
スルッと脇腹の痣を撫でられ、くすぐったさについ体が震える。
「ふふ。くすぐったい」
「……怪我もだけど痩せすぎだな。骨浮き出てるぞ」
「1週間ちょいで落ちたような体重なんてすぐ戻るよー」
「ん。すぐ戻せよ。今日はなに食いたい?リチェールが食べたいものなんでもいい。出前をとるか、元気があるなら食いに行こう」
どうしてこんなに甘やかしてくれるんだろう。
正直父さんが来たあの日からずっと食欲なんて湧かなかったのに、千さんと食べれるならなんでも食べれる気がしてきてしまう。
オレってこんなに乙女脳だったかなぁ。
オレの痣を一つずつ丁寧な手つきで確認する千さんの手に自分の手を重ねた。
「オレ、ご飯作るよ。前にオレの料理褒めてくれたでしょ?あれが嬉しかったから」
「………そうか」
ふっと笑った千さんの顔が、すごく穏やかで胸がギュッと掴まれるようだった。
どうしたって、汚いオレなんかがこの人の隣にいることに、罪悪感とか、申し訳なさが渦巻いて、ほんの少し切ない気持ちが残る。
そんなほろ苦さが残っても、それでも包んでくれる温かい気持ちにオレも顔が綻んでしまう。
「このひどいクマもなんとかしないとな」
オレの顔を手のひらで包んで、目の下を親指がなぞる。
あの日以来、たまに見るイギリスにいた頃の夢を、毎晩のようにみるようになってしまった。
だから、まとまった睡眠は取れないでいたけど。
きっと、今夜からはそんな夢見ないだろうなって確信していた。
「今日は多分、ぐっすり安眠だよ」
そう言って、心配性な千さんに笑ってみせた。
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