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エゴイズム
広めの公園を奥へ走り抜けて、電気のつかないトイレへと身を隠した。
男女兼用の多目的トイレだから普通のものよりは広く、赤ちゃんのオムツをかえる台にルリが座り込んだ。
苦しそうに息を荒く吐いて額からは汗が伝っていた。
「ル、ルリ…………腹、刺されたの………?」
震えた声で聞いても、俺は未だに信じられなかった。
ルリはふっと柔らかく笑って大したことないと言う。
「かすっただけだよ。全然平気。血の量も大したことないでしょー」
「いや、まずは病院に!!」
「大きな声出さないで。見つかっちゃう」
俺の口に人差し指を当てて、落ち着かせるように柔らかく笑う。
なんで笑うんだよ。痛いくせに。
「病院もだめだよ。孝一さんを犯罪者にしたくないんでしょー。
アキちゃんが孝一さんを守るって言うなら、自分から顔を突っ込んだ以上、そこは尊重するよー」
なんで。
お前は巻き込まれて血まで流してるのに。
でも、やっぱり孝一が警察に取り押さえられる所なんて見たくなかった。
こんな俺を薄情だって思わないのだろうか。
「アキちゃんの気持ちよくわかるよ。
周りを巻き込みたくないってのも、自分がうまく立ち回らなきゃって思っちゃうのも。
本当にアキちゃんの考えが手に取るようにわかるんだ。
オレも、同じだから」
ルリが切なそうに笑うから、なんだか泣きそうになった。
「光邦さんも巻き込みたくなかったんでしょ?大丈夫だよ、オレ一人で動き回ったから他に誰もこの状況わかんないし。
オレ頭賢い方だから大丈夫だからねアキちゃん。
悪いようにならない方法すぐ思い付いちゃうから」
ルリがぎゅっと俺の手を握ってくれる。
こんな自分さえも守れなさそうな小さな手で、どうして人ばかりを庇おうと思えるのだろう。
母さんも、華奢な体でいつも俺と姉さんを庇ってくれた。
俺は男だから、守ってくれなくてよかったんだ。俺が父さんの暴力を受けていればよかったんだ。
父さんは、あんなに弱い人なのに、最後まで母さんのそばを離れなかった。
俺は逃げ出した。自分のことを忘れて、弱っていく母さんをそばで見ているのなんて耐えられなかった。
ルリだって、自分が刺されまでしてるのに、あくまで俺の気持ちを尊重してくれてる。
「……孝一のそばにいたのがルリなら、今ごろ孝一は真っ当になってたかな………」
きっとなっていただろう。
多分俺が孝一を弱くしていったんだ。
いつのまにか取っていたのかわからないけど、ルリは孝一の持っていたはずのナイフの血を洗面所で洗いながら疲れたようにはーっと深くため息をついた。
「なわけないでしょ?
アキちゃんがそばにいたから孝一さんは今の現状に止まれていたんだよ。
アキちゃんがいなかったら、多分今ごろあの人は刑務所の中じゃないの」
呆れたようにそう言いながら、ルリは来ていたパーカーを脱いで自分の腹にあてた。
止血をしようとぎゅっときつく巻きつけ、息をのむ声が聞こえる。
確かに血の量をみるとそんなに深くないのかもしれないけど、かなり痛いに決まっていた。
「アキちゃんは、孝一さんは酔ってキレるとダメなだけで普段はいい人っていってたけど、あの人がアキちゃんと会う約束した場所にナイフ持ってたこと、よく考えた方がいいと思うよー」
たしかに、よく思い返せばゾッとする話だ。
もし俺がよりを戻さないなら、本当に無理心中でもしようとしていたのだろう。
ルリの持つナイフは先が鋭く尖っていて、うちには間違いなくなかったものだ。
「刺されたのがオレでよかったよ。アキちゃん避けないでしょ」
本当にルリは俺のことをなんでも見透かしてしまう。
ポケットのスマホが何度も振動する。
孝一からの着信だろう。
「…………うん。やっぱり警察に連絡しよう」
黙り混んでたルリが重たい口を開いた。
仕方ないよな。
ルリは刺されてるんだし。
孝一はそれだけのことをしたんだ。
わかってるけど、俺の首を絞めながら苦しそうに泣く孝一が頭から離れない。
「オレはここから出てどっかに隠れるから、アキちゃんは警察に電話して。
アル中の同居人が暴れてどうしようもないって。
で、ここに隠れてるから保護してほしいって言うんだよ」
「え……?ルリ出てくの?なんで?」
俺の質問にルリがキョトンと首をかしげる。
「なんでって、オレがいたら孝一さんが人を刺したってバレちゃうよ?
アル中だってちゃんと診断もらったら、刃物振り回したことも誰か刺してない限りそんなに罪に問われないと思うし、とは言えやっぱり孝一さんはちゃんと警察とか病院に保護してもらうべきだよ」
ルリは、本当に俺の気持ちばかりを汲んでくれる。
なんでそんなに自分ばかりを犠牲にできるのかわからない。
「だめだよ。今ルリが出てって孝一に見付かったらどうするの?」
「大丈夫だよー。オレ足早かったでしょー?
第一ナイフはもう奪ってるしね。多分喧嘩しても負けないし。
てか、オレ自身もちょっと大事になったら困るんだよねー。だからオレのためでもあるからさ」
絶対うそだ。
大事になって困るなら最初っから首を突っ込まなきゃいいんだから。
こうやってルリは俺が選択しやすいようにしてるんだ。
「………ごめん、ルリ」
「大丈夫だよ。警察には孝一さんが持ってたこととかはちゃんと言わなきゃだめだよ?なんとか奪ったってことにしてさ。孝一さんが刺しちゃったとか証言しても、アル中で幻覚でもみたって思われてアキちゃんの話を信じると思うから何で説明するかは都合のいいようにうまく伝えてね。
まぁアキちゃんのぼこぼこの顔見たら警察もちゃんと話聞いてくれると思うから」
「うん。ルリはちゃんとすぐ病院に向えよ」
「おっけー。じゃあオレがでたらすぐここに鍵をかけて電話するんだよ」
ルリはまた汗ばま顔で柔らかく笑って、外を確認して出ていってしまった。
急に心細くなったけど、言われた通り110番に電話をかけた。
ルリに言われた通りの内容を喋り、しばらくしたらサイレンの音と孝一の叫び声がすぐ近くで聞こえ、涙が一筋頬を伝った。
精一杯、孝一をかばったつもりだった。
もう俺がそばを離れなければなんて馬鹿なことは思わないけど、せめて孝一がお酒をやめて強く生きて、いつか出会った頃のような笑顔に戻ってくれたらと思う。
もう会うことはないだろう。
さよなら孝一。
最後まで好きになれなかった。
でもはじめて守らなきゃと思えた言い表し様のない存在だった。
たしかに孝一を大切に思ってた。
俺は、お前を愛したかったよ。
「ごめんね、孝一……」
一人言は、誰に届くわけでもなく小さく室内に響いた。
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