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穏やかな昼過ぎ
食べ終わった食器を洗ってテーブルを拭くと、そこに教材を開いた。
「わからなくなったら言えよ」
「うん、ありがとー」
千さんは新聞を広げて、ニュースを読み始めた。
完全に終わってる他の教科とは違い、真っ白な古典の課題の一ページ目を開く。
普通の漢字すら読めないことがまだまだあるのに、古典の単語は読み方が独特だから余計に厄介だ。
とはいえ、まぁ平均点を下回る点数なんてそうそう取らないけど。
カリカリと、オレのペンの音だけが静かな空間に響く。
15問目に差し掛かったところで、机の隅に置いてあったオレの携帯が鳴った。
画面をみると、シンヤから。
あんなことがあって、夏休みに入る一週間前から学校を休んでたし、ゆーいちとも気まずいままで、グループのみんなとあまり連絡をとっていなかったけど、シンヤだけはよく連絡をくれていた。
「はーい。もしもーし」
「あー、ルリ?今大丈夫?」
「大丈夫だよー。どうしたのー?」
長くなるのかな?
うるさくならないように寝室で電話をしようと立ち上がると、千さんが新聞から顔をあげて、手でここにいていいよって、ジェスチャーをしたから、もう一度座り直した。
「もうすぐで登校日じゃん。みんなで学校終わったらプールいこうって話してるんだけど、ルリもいこうよ」
「プール?」
どうしよう。
ゆーいちとは気まずいままとは言え、仲直りはしたい。
それに、千さんとのこと言った方がいいのか、言わない方がいいのか考えどころだった。
教師と生徒だし。
でも、ゆーいちの気持ちを知ってて隠すのはどうなんだろう。
「オレはやめとこうかなー。みんな泳ぎ上手だし、オレ未だに泳ぐの苦手だしねー」
「んー、じゃあ俺と二人で秘密の特訓でもする?」
「シンヤと二人で?」
たしかにせっかくの夏休みだし、遊びたい気持ちはあったし、シンヤはゆーいち以外の三人の中では一番仲がいい気がする。
「てかさ、俺、雄一とも友達だけど、ルリとも友達だしこうやって疎遠になるの寂しいんだけど」
男の癖にさみしいとか簡単に口にするシンヤについ笑いが溢れる。
「あはは。さみしいってなにー?かわいいんだけどー」
「俺も協力するし、雄一と仲直りするか、まだ気まずいなら俺と抜け駆けして遊んでよ」
「ありがとー。頑張ってゆーいちとは仲直りしなきゃねー」
「てか明日か明後日一回会おうよ。全然会ってないし」
「OK。じゃあ明日か明後日ね。また連絡するねー」
「ん。じゃあね」
通話を切って、携帯をまたテーブルの隅に置く。
日本でも新しく友達できてよかった。
あと、そえんってどういう意味だろう。
会話の流れでなんとなく返事しちゃったけど、後でちゃんと調べよう。
「オレとゆーいちがまだ気まずいままだからシンヤが気を使ってくれたみたい」
「ああ、そう」
やっぱりうるさかったかな?
千さんはどこか不機嫌そう。
「うるさくしてごめんねー?」
「べつに。電話くらい普通にとったらいいだろ」
やっぱりなんか不機嫌。
なんで?勉強真面目にしなかったから?
いやいや、この不良教師がそんなことで怒るはずない。
なにかまずいこといったかな。
少し千さんの態度が冷たくなるだけで、どんどん不安になる。
「千さん、勉強始めたばっかだけど、一緒に休憩してくれない?ソファでお茶のもう?」
新聞から千さんがはぁ?という表情で顔を出す。
「えと、引っ付きたいなーって」
恐る恐るいうと、千さんがふっと笑う。
「なにお前、少し甘えん坊になった?」
クスクス笑いながら、千さんが立ち上がる。
オレの気のせいで怒ってはなかったのかな?
「わっ」
ひょいっと抱き上げられてしまい、一瞬声をあげる。
本当にこの人はリモコンを取るくらいの気軽さでオレを軽々持ち上げる。
ソファに向かうと、千さんの膝の上に横向きで座る形で下ろされ、近すぎる距離に顔が熱くなる。
「せんさ………っお、オレ重いから………っ」
「降りる?」
「降りないけどっ!」
「降りねーのかよ」
可笑しそうに千さんが、ふはっと笑う。
だって、千さんからこうしてぎゅーってしてくれるのは珍しいから、恥ずかしいけど、やっぱり嬉しい。
顔が赤いのを誤魔化したくて、千さんの胸にぐりぐり顔を擦り付けた。
「リチェール、くすぐったい」
「んー。千さんの匂いすきなんだもん」
「同じ香水買ってやろうか?」
千さんの香水はたしかブルガリブラック。大人セクシーって感じでオレにはまだ少し似合わないと思う。
「そうじゃなくて、千さんの匂いが好きなのー」
「変態」
「えへへー。変態だよー。千さん分かってるならオレに襲われても文句言わないでねー」
言葉はぶっきらぼうなのに、手は優しくオレの髪を撫でる。
「ねー、千さんさっきちょっとご機嫌ななめじゃなかったー?」
見上げると、思ったよりずっと近い距離で内心ビックリする。
「あぁ、それで不安になって引っ付いてきてんの?お前は一々俺の機嫌を伺いすぎ」
「機嫌を伺ってる訳じゃないけど、不安にはなるよー。
オレなにか千さんに嫌なことしちゃったかなー?」
「あー………言わねぇ。でもお前はもう少し自信もて」
やっぱり機嫌悪かったんじゃんって俯くと、千さんのため息が聞こえる。
「お前は本当に俺のことすきだね」
なにを今更。
自分でもこんなに簡単に不安になることなんてないってわかってるのに。
「好きだよ。千さんがオレのこと好きでいてくれてる100倍好きって気持ち勝ってるもん」
「なに拗ねてんだよ」
しかも100倍とかがきくせーと、笑う。
ほんと、なに拗ねてんのオレ。
で、千さんが笑うだけでどうでもよくなるこの単純な頭はなに。
「オレもっとしっかりしてたはずなのに、千さんにどんどん弱くされた気がするー」
「頭が?」
「怒るよ?」
結構失礼なこと言われたのに千さんが、はははって笑うだけでなんだか許せちゃう。
笑ってくれたのならいいやって。
「千さん、明日か明後日かどっちか予定ある?」
「は?あー、明日も明後日も仕事だけど。
ああ、明日は蒼羽と会うから少し遅くなるかな」
「ふふ。蒼羽さんと仲いいね。妬いちゃう」
千さんが妬いてるように見えねぇよと、オレの頭を小突く。
「明日か明後日かシンヤと会う約束したんだけど、どうせなら千さんがいない日にしようと思って」
明日にしてもらおうと、思いながら呟くと千さんがぴくっと眉を潜めた。
「なんで?」
「え?だって千さんが家にいるのにオレが出掛けるのってなんかもったいない気になるじゃん」
「は?」
「一緒にいれる時間は一緒にい……」
一緒にいたいじゃんと言いかけて止める。
なんかこの発言かなりキモくないか?
第一、こんな重い感情は千さん嫌いそうじゃない?
「ごめん。なんでもない」
ぱっと顔をそらして言葉をやめたけど、たぶん手遅れ。
ちらっと千さんを見ると、少し驚いたような表情をしていた。
それから大きくため息をついた。
「……あー、さっきの機嫌悪かったってやつ。もう解決したから、気にしなくていい」
「ええ?なんで?」
「ああ、でもプールはやめろ。怪我のこともあるけど、治ってたとしてもいかせねぇ」
今のでなんで解決したの?
話についていけず、千さんを見上げても教えてくれない。
傷が閉じてるとは言え、悪化するかもしれないのにプール行こうとしたから、とか考えたけどそうじゃないらしい。
まぁ、千さんの機嫌がなおったのなら、なんだかもうどうでもいい。
わかったーと返事をして千さんにもたれると、頭をぽんぽんと軽く撫でられる。
この人のそばは本当に何気ない毎日が平和で幸せだなぁってふと頬が緩んだ。
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