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電車
千side
すっかり素直になって腕の中から出ようとしないリチェールの柔らかい髪を撫でる。
「リチェール。そろそろ話せるか?」
泣いた後の少し赤い目で俺を見上げて、またすぐ不安そうに俯いた。
リチェールは結構怖がりだ。
少し不機嫌になっただけですぐ真っ青になって震えるから、いつも怒るに怒れない。
今回はさすがに怒ったけど、だからかわりにリチェールが反省したなら甘やかしてやるようにしてる。
「佐倉にリチェールのこと頼まれたし、あと二時間くらいこのままでもいいけど?」
ぽんぽんと背中を叩けば、躊躇い勝ちに顔を横に降った。
「言えるよ。
……でもこのままでもいい?」
ころんと俺にもたれたまま甘えるようにリチェールが見上げる。
表情はまだ不安げで本人はまだ色々葛藤してるんだろうけど、可愛く見えてしまう。
「リチェール、怖くないから。
今日中に解決してやるから頑張って話して」
「……オレのこと、嫌いに」
「ならない」
リチェールの言葉を遮ってはっきり言うと、リチェールがぎゅーっと強く俺に抱きついて顔を埋めると、意を決したように顔をあげた。
「昨日ね、放課後たろろこせんせーに呼び出されてね」
始まるリチェールの言葉に、やっぱりと思う。
田所だと思った。
今朝のあのタイミングもわざとだろう。
こいつアホだとも思ったけど。
「そしたら、手に引っ掻き傷があって………」
それからリチェールは、田所にこれまで電車でされたことは黙っててやるから、もう関わらないように言ったこと、その場で乱暴されたことや写真で脅されたことを話した。
家に入るところの写真なんていくらでも言い訳も言えるし、ましてや田所に騒がれた所で痛くも痒くもないのに。
リチェールは頭もいいし、機転もきくけど、肝が小さい。
自分のことだと見境ないくせに、俺の立場がなくなるなんて適当な言葉に簡単に萎縮しやがって。
俺が田所なんかに立場危うくされるわけねぇだろと言えば、本当そうだよねと、リチェールが落ち込む。
でも俺なら何とかしてくれると思って、リチェールはちゃんとここのドアの前まで来たんだ。
初めて、リチェールからちゃんと俺に頼ろうとしたのに、折山の話を変な捉え方して暴走して、らしくないと思う。
よっぽと情緒不安定だったんだと思うと、なんとも言えない気持ちになる。
あのとき、ちゃんとリチェールと話をしていれば少なくとも、今日リチェールが電車で好き勝手されることはなかっただろう。
脅されて、抵抗もできないまま体を弄くられて、あんな趣味の悪いものつけて歩かされて。
ふつふつと田所に対して怒りが込み上げる。
リチェールの話を聞き終わり、少し考えているとコンコンとノックされた。
リチェールが慌てて体を離し、ベットに潜り込む。
「はい。どうぞ」
ベットカーテンを閉めて、返事をするとカラカラと音をたててドアがスライドした。
「失礼します。月城先生、ルリ君は落ち着きましたか?」
佐倉がひょこと顔を出して、遠慮がちに中に入ってくる。
「ええ。今は寝てます」
「そうですか。あの、校長が話すことがあるそうで来ていただいてよろしいですか?」
「田所先生のことですよね?わかりました」
田所のことだから、なんて代弁をしたか大体の予想はつく。
元気のない佐倉も困ってるというか、呆れてる様子だ。
二人で廊下を歩きながら、ため息が重なる。
「田所先生、なんかわけわかんないこと言って校長も困ってるんです」
「なんとなく想像つくんで大丈夫ですよ」
そう言うと佐倉は、ハハッと乾いた笑いをこぼす。
すくについた校長室のドアを三回ノックして返事を待ってから開けた。
そこには少し疲れた様子の校長と焦って余裕のない田所が向かい合って座っていて、俺も横に座るように言われた。
「月城先生、今朝居合わせたようですね。生徒は落ち着きましたか?」
「はい。今は眠ってますが、起きたら授業に出るか早退するか選ばせようと思います」
退室しようとした佐倉も校長に残るよう言われ、校長の隣に腰かけた。
「そうですか。田所先生曰く、その生徒と月城先生が関係があると言っていて、あなたから生徒を守るために構っていたと言うですが、この写真に見覚えは?」
スッとテーブルにリチェールとマンションに入る俺の姿が写った写真を差し出される。
これがリチェールが脅されたってやつか。
見れば見るほど、これがなんの脅しになるのかとあきれる。
「これはGWの時ですね。アンジェリーがイギリスの両親から不備のあった書類を学校に持ってきた時、たまたま業務を終えて車で帰ってるところを見かけると全身傷だらけでした。
本人曰く、階段から落ちたらしいのですが一人暮らしで自分で施したらしい手当ては拙いもので見てられなかったのですぐ近くの私の家に救急箱を取りに行ったときのです」
予め用意していた言葉をつらつら並べると、佐倉もうんうんと頷く。
「その日は僕もよく覚えてます。
生徒から書類を受け取ったとき、緩く巻かれた包帯に傷のはみ出したガーゼが本当に適当で、病院に行くように言って帰しました」
「………らしいですよ、田所先生。もういいですか」
佐倉の話を聞き終わり疲れた顔で校長が田所を見ると、悔しそうに唇を噛み締めて俯いた。
「とにかく、赤点の生徒を差し置いて、成績優秀で体の弱い生徒を倒れるまで勉強漬けにするなんて体罰と変わりません。
親御さんから苦情が来なかったのが不思議なくらいだ。
他にも色んな生徒からあなたの悪い話は聞いていました。
これからは田所先生が生徒を呼び出すことも居残りを強要することも禁止です。よく反省してください」
「そんな…………っ」
反論しようとした田所を校長が厳しい目でたしなめる。
しばらく黙って、消え入りそうな小さな声で「はい」と答えた。
「では、田所先生と少し今後の話をするので月城先生と佐倉先生は業務に戻ってください」
「はい。失礼します」
校長にそう言われ、佐倉と二人で立ち上がり校長室を後にした。
校長室から数歩離れて佐倉が振り返る。
「月城先生、すみません。
僕の生徒のことで大変ご迷惑をおかけしました」
申し訳なさそうに頭を下げる佐倉に少し驚く。
佐倉は普段はマイペースで緩い雰囲気なのに仕事は責任感もあって律儀だ。
本当のことを言うと、付き合ってるのは事実だし俺らの問題に巻き込んだのに。
「いえ、今朝かなり助かりましたよ。
前々から田所先生はやりすぎだと思ってたんでよかったです」
「本当ですね。
ルリくんがあれで教師嫌いにならないといいけど」
「それは大丈夫でしょう。素直な生徒ですし」
「ふふ。そうですね」
佐倉は整った顔で柔らかく笑い、このまま授業があるからと『今度飲みに行きましょう』と話をして別れた。
ああいう奴がリチェールの担任でよかった。
佐倉と別れて保健室に戻ると、リチェールが不安そうにベットカーテンから顔を出した。
「おかえりなさい」
「ただいま。具合は?」
「大丈夫だよ。次から授業も出る」
まぁたしかに、体調を崩してた訳じゃないし、顔色もいい。
ハンガーにかけていた白衣を羽織って、ベットに腰かけると、リチェールが控えめに俺の白衣の裾をつかんだ。
「写真見たけど、あれくらいで脅されてんじゃねぇよ』
わざと意地悪く笑って小さな鼻を掴むと、リチェールが少し苦しそうにパシパシ俺の腕を叩く。
「それで、どうなったの?」
「さぁ、田所は謹慎か移動になるんじゃね?」
「そうなの。ごめんね?疲れた?」
なんでお前が謝るんだっての。
いい加減、その隙だらけの顔はどうにかしてほしい。
後頭部を手で寄せて胸に倒すと甘えるように体重を預けて寄りかかってくる。
かわいい。
こいつのこんな面、知ってるのは俺だけでいい。
頼るのも、甘えるのも、さっきみたいに不安をぶつけるのも、全部俺だけにしたらいい。
「千さん、この関係がバレそうになったあとなのに、こんなこと、困らせるのわかるんだけどね、お願いしてもいい?」
「なに?」
「今日千さんの家に泊まっていい?」
合鍵渡してるんだから、いつでも来たらいいのに。
断られるかもと思ってるのか不安そうに言うリチェールにふと笑いがこぼれる。
「今日は少し残業するから、先に帰ってられるか?」
「うん、誰にも見られないように気を付ける」
「リチェールの作ったオムライス、久しぶりに食べたい」
「ふふ。千さんオムライス好きなの?かわいい」
こんな30手前のおっさんに可愛いなんて言って柔らかく笑う。
かわいいのはどっちだよ。
「放課後が楽しみ。
卵ふわふわにして美味しいの作って待ってるから一緒に食べようね」
家に帰ったらまた甲斐甲斐しく湯船をはって、ご飯つくって、掃除して待ってるんだろう。
できるだけ早く帰ってやろうと思いながら、リチェールを保健室から送り出した。
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