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亀裂
今日、泊まって行けと純ちゃんと雅人さんの両方から言われたけどやんわり断った。
これ以上弱いところを見せたくなかったし、頼りすぎてしまうのも悪いし、やることだってあったから。
重たい足取りで千のマンションにむかい、合鍵を使って中に入った。
「ただいま」
オレのなんとく呟いた小さな声は相変わらずシンプルで、広い部屋に静かに響いて消える。
ふわっと千の匂いに包まれて、ぐっと唇を噛んだ。
感傷に浸るために気たわけじゃないんだから。
両方の頬をバシッと叩くと、自分を奮い立たせて黒いごみ袋を開いた。
そこにオレのものを次々に突っ込でいった。
服も、小物も、歯ブラシも。
全部、全部。オレがいた痕跡なんて何一つ残らないように。
だって、そうでしょう?
ただでさえ、大怪我をして記憶もなくして気疲れしてるのに、帰った家に誰かがいた痕跡なんて気持ち悪いに決まってる。
考えることを増やすわけにはいかない。
オレと累くんの間で板挟みになって困るなら近付かない。
オレの面影なんて全部なくなってしまえばいい。
元々オレには身の丈に合わない幸せだったんだ。
あれはバカなオレが見た、幸せな夢。
全部全部、都合のいい虚像だったんだと自分に言い聞かせて作業に没頭した。
きっと神様が、オレからあの人を解放したんだ。
玄関から、ベランダまで細かくチェックしてオレのものを全部袋に突っ込むと、ほんの20分ほどで終わってしまった。
こんなもんだよな。オレと千が過ごした時間なんてほんの半年だ。
本当はやることだけ終わらせたらすぐに出るつもりだったのに、未練がましくオレの足は寝室に向かった。
腰を下ろすと、ベットサイドに置かれたタバコに何となく目が止まる。
____千のタバコ吸ってるとこかっこいい。
____リチェールは吸うなよ?
優しく笑った顔にまたきゅんとして抱きつくと火が危ないと千がオレを優しく撫でてくれた。
今はもう、吸うなよ?って注意してくれる千はいない。
特に何も考えず、なんとなくタバコを一本取り出して火をつけた。
「………っ、けほっ」
深く息を吸い込むと、噎せてしまいまだまだ長いタバコを灰皿に押し付けて消した。
なにこれ、そばで嗅いでた匂いと全然違うし、不味い。
はぁ、と短くため息をついてベットに倒れこむ。
でもこの部屋さ千がそこにいると錯覚させるような匂いが溢れてる。
"リチェール、愛してる"
オレを組み敷いて、どこか余裕なさそうに笑う千さんの温もりが過った。
「………っふ…………」
ぼろっと涙がこぼれて、ぎゅっと枕に顔を埋める。
「ぅあああ………っうう……うわぁあんっ」
途端に壊れたようにボタボタ溢れて止まない涙が次々に枕にシミを残して行った。
千が無事だった。それだけでいい。
その気持ちに一ミリだって嘘はないのに。
「わぁあん………っう、……っせ、ん……千……っ」
リチェールって呼んで。
抱き締めて、笑いかけて。頭を撫でて。
千に甘やかされた幸せを覚えたオレはもうこんなにも弱い。
「せん………ううっ……やだよぅ………やだぁ………せん…っ」
オレのこと思い出して。
忘れてしまったなんて嫌だ。
なかっことになんて、本当はしたくない。
累くんなんて撫でないで。
オレだけを見て。
「あい、たいよ………っ千………せんぅ……っ」
"冬休みになったら、リチェールの親に会いに行こう"
つい数日前にした約束だった。
"リチェールには辛いことに向き合わせることになると思う。それでも必ず幸せにするから、一緒に頑張ろうな"
冬休みを越えれば、ここで一緒に暮らせるんだと思ってた。
あの時、ちゃんと伝えればよかった。
オレ、幸せだったよ。
千が隣にいてくれたから、辛いことなんてひとつもなかった。
あなたと出会って過ごした半年間、本当に本当に幸せだった。
何度もすがるように名前を呼んでは、その夜は結局千の家から出れずに一晩中泣いた。
そして、寝れないまま朝が来て、もう来ることはないだろう千の家のドアを閉じると、鍵をかけた。
「…………さようなら」
合鍵をポストに落として、また溢れた涙を千からもらったスヌードで隠してマンションを後にした。
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