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さようなら

リチェールside 目を覚ますと、そこに千はいなかった。 書き置きなどもない一万円だけが置かれたこの空間がやけに切なくて、目を手で覆った。 千が、オレのことはアンジェリーって呼ぶくせにあの女性を玲子って呼ぶものだからショックもまして、昨日は上手く頭が働かなかった。 また優しい千に、こんなひどいことさせて、最悪だ。オレは何も成長してない。 それでも、気持ちは伝えられた。 後悔が少しもないかと言われたら嘘になるけど、決心はついた。 最後に、思い出ももらった。 もう十分だ。 脱ぎ捨てられた服を着て、最後に千と過ごしたこの一晩限りの空間を後にした。 外はキンと冷えていて千からもらったスヌードを鼻まで深く被る。 オレが痛くしてって言ったから、千は躊躇うような表情を浮かべつつも、優しくしないようにしてくれた。 そのせいか、鈍く痛む腰のせいでずるずると足を引きずるように歩く。 痛い方がいい。優しくされたら、余計に悲しくなるし、昨日のことが鮮明に思い出せるような気がした。 本当は、千はすごく嫌だったと思う。 何度もやめようと言ってきた。 でも優しいから、ずるく最後だからと泣けば最後までしてくれた。 ちゃんと、もうやめるから。 低くて甘い声も、意地悪く笑う顔も、強引に引き寄せる手も、人一倍優しい言葉も全部。 ずっとずっと好きだけど、もう諦められる。 これ以上困らせたくないし、千は最後だからってあそこまでしてくれたんだから。 もう十分すぎるほどたくさんのものをもらった。 大切にされる安心感とか、好きな人を想う暖かさとか。 付き合えた期間の思い出は宝物だし、ずっと忘れない。 学校ですれ違ったら何も無かったように笑って会釈をするんだ。 卒業式くらい、一度挨拶に行ってもいいかな。 「………………っ」 ぼた、ぼたと溢れて止まらない涙に気付かないふりをして、啜る鼻をまだ霧掛かった朝の冬の寒さのせいにして、腰が痛むのを無視して早足に歩く。 さようなら。 オレね、幸せだったよ。 もう一度深くため息をついて歩き出すと、ポケットでスマホが震えた。 まさかと、少しのありえない期待を抑えて画面を見ると、母さんからだった。 なんで?母さんは父さん以上にオレに興味ないはずなのに。 不審に思いながら、涙を拭って画面を横にスライドした。 『……もしもし』 『よかった繋がって。あのね、大変なことになったのよ』 珍しく少し焦った様子の母さんに、眉を潜める。 『………どうしたの』 『ロンが倒れて危ない状況なの。あんた、お金多目に送っとくから、明日朝イチでイギリスに帰ってきなさい』 『父さんが?なんで?』 『脳梗塞らしいわ。 とにかく早く帰ってきて。息子なんだから、いいわね?』 父さんが?危ない? 正直実感はわかないけど、母さんの声が珍しく焦ってることから本当のことなのだと理解した。 そっか、母さんにも父さんを心配する気持ちは残ってたんだ。 なんだか、こんな状況なのに気が緩みそうになる。 『すぐ、確認してして折り返……』 ああ、そうか。 もう千に相談する必要はないんだ。 『わかった。明日すぐ飛行機乗るよ』

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