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果てしなく長く感じた時間は、カチャとドアの開く音で終わりを告げた。 中から出てきた医師に立ち上がる。 マスクで見えない表情に緊張感が走る。 『命に別状はありません』 その一言に、全身から力が抜けてフラッと一瞬目が回った。 ………よかった。 リチェールが無事ならそれでいい。 記憶喪失にでも何にでもなってても、それだけで救いがあった。 『残るような外傷も特にないです。 舌は自分で噛んでいましたが、そんなに傷も深くはなく、後遺症はないでしょう。 頭をぶつけてましたが、こちらもレントゲンに異常は見られませんでした。 強い麻酔を使うような手術も使ってないのですぐ目を覚ますと思います』 やっぱり舌を噛んでいたのだと怒りが込み上げる。 リチェールにも、そこまで追い詰めた両親にも。 なにより目を離した自分にも。 バカリチェール。自殺をはかるなんてどうかしてるだろ。 『ちなみに、彼とのご関係は?』 『彼が日本で通う高等学校で教諭を勤めており、彼からはよく虐待の相談を受けてました』 『そうですか。 ご両親がリチェールさんに会うことはもうないでしょうから。 目が覚めたときに、そばにいてあげてください』 『はい。そのつもりです』 『本当に危ない状況でした。 病院に搬送されるのがあと一時間でも遅れていたらどうなっていたかわかりません。 皮肉ですが、首を絞められ気絶させられていたのが不幸中の幸いですね。 出血は酷いですが、舌はそんなに強く噛めていませんでしたから』 あと一時間。 飛行機がとれなかったり、記憶が戻らなかったら、確実に間に合わなかった。 そう思うとゾッとした。 『目覚めるのは早くても明日になると思うのでゆっくり休まれてください』 『はい。本当にありがとうございます』 医者はマスクを外すと人当たりのいい笑顔を向けて、近くにいた看護師にリチェールの病室に案内するよう指示をしてくれた。 若い女性の看護師に案内された個室にはまだ名札はなく、中にはリチェールが静かに横たわっていた。 看護師が出ていったのを確認して、リチェールの頬に触れると、先程よりかはほんのり温度が感じられ、ようやくホッと胸を撫で下ろした。 血が流れていた左の額を押さえるように包帯は巻かれていて、左目まで貼られた眼帯で隠れている。 右の頬は大きなガーゼが貼られていて痛々しい。 跡には残らないと言っていたけど、リチェールの真っ白な肌を思うと消えるまで時間はかかるだろうと思う。 あの冷たい肌の感触を忘れるように、リチェールの手を握った。 トントン しばらくそうしているとノックのあとにドアが開いた。 『何度もすみません。今少しよろしいですか?』 立っていた警察の丁寧な問いかけに、はい、と短く答えて立ち上がった。 『彼のことでご両親が虐待を否認していて、もう少し話を詳しくお聞きしたいのですが』 否定? この期に及んで。 リチェールのひどい有り様を思い浮かべ沸々を怒りが込み上げる。 リチェールが目を覚ますのは早くても明日。 『ええ。捜査に全面的協力します』 それまでにけりをつけてやる。 お前が目を覚めたときは、もうお前を苦しめるものは何もないように。 "必ず幸せにする。だから一緒に頑張ろうな" 傷付けてしまった後になったけど、今度こそあの日の約束を守るよ。 一度リチェールの頬をなで病室をあとにした。

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