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リチェール
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リチェールが入院して、4日目。
ドアを開けると、いつもは静かに横たわるブロンドが窓の外を眺めていた。
その存在を確かめるように強く抱きしめて、名前を呼ぶ。
躊躇いがちに回された手に、凍りついていた心臓がようやく動き出した気がした。
小さく震えて胸を湿らせる温もりに、また泣いているのかと髪を撫でている時に、ふと違和感に気が付いた。
………こいつ、さっきから一度でも声を出したか?
ゆっくり体を離して、エメラルドグリーンの瞳をまっすぐ見つめる。
「リチェール?千って呼んでみろ」
リチェールは、悲しそうに涙をこぼしながら顔を横に振った。
まさか、声が。
信じられない思いで息を呑む。
もう一度抱きしめようとしたその時、コンコンとドアが鳴り看護師が現れた。
咄嗟に離れようとするリチェールを、泣き顔を見られたくないだろうと思い抱き寄せた。
『あら、月城さん。来られてたんですね。アンジェリーさん昨晩から目を覚ましましたよ。声のことはもうお聞きでしょうか』
『……いえ、今わかったところです』
『心配いりませんよ。喉に外傷はなく、精神面から来てるとドクターも言ってたので、きっと治ります』
その言葉に、ホッと胸を撫で下ろした。
もう二度と、リチェールの声が聞けないわけじゃない。
安心する反面、声が出なくなるほどの傷を心に負ったのだと思うと、改めてリチェールの傷の深さを思い知らされて胸が締め付けられる。
『ご飯も一口も手をつけられてなかったので、今日一日何も食べれないようなら点滴になってしまうので頑張って少しでも口付けて見てくださいね』
それだけ伝えに来ました。と言い残し、看護師はまた後から来ると部屋を出て行った。
腕の中で不安そうに見上げるリチェールの髪をくしゃくしゃと撫でる。
「……自分で舌噛んだくらいだもんな」
「……っ」
小さな顎を持ち上げで口に親指を入れれば、少し痛そうに顔を顰めた。
被害者はリチェールだとわかっているのに、自分で命を絶とうとしたことが、どうしても許せない。
その唇を自分のもので塞ぐと一瞬、怯えるように押し返そうとする。
「_______っ」
舌を絡めとれば、痛いのかビクッと身体を揺らして、必死に俺の肩を押し返してきた。
小さな舌を犯すように深く深く口付けて、そっと離すと、涙の滲んだ瞳で睨むように見上げてくる。
真っ赤に惚けた顔に睨まれても、可愛いとしか思えないけど。
「痛くて声が出ると思ったのに、残念」
ふ、と笑えば、リチェールが赤い顔を隠すようにバシッと俺の胸を叩いた。
千のバカって言ってる声が簡単に思い浮かぶ。
「二度とバカな真似するなよ」
今度は触れるだけのキスをして、もう一度リチェールの体を抱きしめた。
体を離すとベットサイドテーブルに置かれていたノートとペンを手に待ち、左手でサラサラと何かを書いた。
普段、右利きなのに、いつか左手で何かを書きてたリチェールに両利きなのか聞いたことがあった。
小さい時に不便を感じて両方使えるようにしたんだと何気なく言っていた言葉を今さら思い出した。
今、リチェールの右手には点滴がつけられてる。
利き手が使えなくなることなんて、ザラだったんだな。
"どうやって思い出したの?"
書かれた文に、一瞬忘れていた腹立つこと思い出させた。
「……ああ、新野?だったか。あの画家が描いたリチェールの絵見て腹立って思い出したんだったわ」
眉間に皺がよることがわかったけど、なんとか口元だけは笑顔のままリチェールを見ると、ハッとしたように顔を青ざめさせて口元を押さえた。
「お前本当ふざけんなよ。他の野郎の前でほいほい脱ぎやがって。しかもあれ下着もつけてなかったよな?」
恥ずかしそうにわたわたとしながら、慌てて何かをノートに書き走らせる。
"付き合う前の話だから"
へにゃ、と困ったように笑う顔に、気が緩みそうになる。
くそ、可愛いな。
可愛いけどむかつく。
いや、可愛いから余計にムカつく。
もちろん許さないけど。
新野の前で脱いだことも、付き合ってることを無かったことにしたことも。
「怪我が治ったら覚えとけよ。俺の記憶がないことをいいことに、無かったことにしやがって」
ついキツくなった俺の言葉に、リチェールがムッとしたように眉を顰めた。
わかってるよ。俺に負担をかけないために離れたことは。
わかっていても腹が立つ。
「お前が記憶なくしても、何度でも落としてやる。
だからお前も俺の迷惑になるとか考えてる暇あったらそばから離れるな」
"でもまた千がオレのこと好きになるとは限らないじゃん"
「なるに決まってるだろ」
ハッキリ言い切ると、怒っていたリチェールの顔が困ったように真っ赤になる。
何か書こうとペンを握り直して、何も書かないままペンを落とすと俺の腰に抱きついて来た。
「この先どんな状況になっても、そばを離れる選択だけはとるな。いいな?」
腕の中で、リチェールが小さく頷く。
柔らかい髪を撫でながら俺もきつく抱き返した。
「全部一人で抱え込ませて悪かった」
その言葉に、溜めていたものを吐き出すようにボロボロ泣き出したリチェールをひたすら抱き締めた。
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