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あの日の母と子
そんな生活が続いたある日、家に帰るとリチェールの泣き叫ぶ声がリビングから響いていた。
私たち夫婦のせいで冷めきったあの子が泣くことは滅多になく、早足にリビングに向かうと、開いたドアの隙間から信じられない光景が映し出されていた。
泣き叫んで抵抗するリチェールを押さえつけて、私の名前を呼んで無理矢理犯すロン。
あまりの衝撃に体が硬直して動かない。
なんで?
その子は私たちの天使でしょう?
どれだけこじれてもそこだけは変わらないって私は、信じていたのよ。
あんまりにも暴れるリチェールをロンが力一杯殴り付けて、リチェールがガタガタ震えながらそれでも逃げようと泣き叫ぶ。
私の体もいつの間にか震えていて、カタンとドアをならしてしまう。
その瞬間、リチェールと目があった。
『____っかあさん!!!助けて!お母さん!!お母さん!!!』
私に精一杯伸ばされた小さな手に、私は体が動かない。
『り、リチェ………』
どうにか声を出そうとした瞬間、ロンと目があった。
私なんかどうでも良さそうに冷たい目で一瞬映して、すぐリチェールの小さな体を貫いた。
『いゃあああ!!!いたいい!やだぁ!!いたいよぅ!!母さん!!!助けてぇ!!』
___なによ、この、状況は。
『……っあ、はは』
口元に歪んだ笑いが溢れる。
でも次の瞬間には涙がこぼれそうで私はあの子を置き去りにして家を飛び出した。
もう、あの子は私を呼ぶことはなくなった。
胸が、どうしようもなく痛い。
私には指先すら触れないあなたが、あの子に手を出したことも。
それでもあなたからあの子と逃げ出すことすらできない自分自身にも。
あなたに抱かれる、リチェールにも。
『あなたの顔を見てるとイライラする』
表情をなくした私と瓜二つの顔に暴言を吐き捨てると、ハッと皮肉な笑いを返される。
『奇遇だね。オレもだよ』
後戻りの仕様がなかった。
リチェールが、突然日本にいくと言い出した。
私と母を置き去りにしてめちゃくちゃにした父と同じ場所へ。
なんの因果なのかしら。
リチェール、いかないで。
あなたがいなきゃ私たち家族は成り立たない。
歪でも狂っていても、家族でいたいの。
あなたを抱くためにでもロンがこの家に帰って来るなら、それでもいい。
あなたが私に憎まれ口を聞いたって、私のために代用品になってくれてるなら、それで愛情を感じられていた、はず、なの。
『おえ…………っ……うぐ………っ』
おさまらない吐き気に苛まれ、もう、心も体も限界だった。
ロンも、リチェールも家にいないことも。
ロンがリチェールが帰ってこないからと日本にいったことも。
もう、限界よ、私は。
こんな生活、続けてられない。
でも、この苦しみを一時まぎらわせえてくれる、彼を手放すことはもうできなかった。
もういっそ、全部手放してしまいたいのに、なにも手放せられない。
苦しくて、悲しい。
『エリシア、僕が幸せにしてあげるから、もう任せて?』
ならもう、忘れさせてくれる彼にすべてを委ねたかった。
なにも考えたくなくて、甘い囁きに頷いた。
『……私たちの離婚しましょう』
『…………………離婚?』
こんなときになって、やっと目が合う。
ねぇロン、私たちが最後に目を会わせたのあなたがリチェールを抱いた日よ。
そんなこと、あなたは覚えていないでしょうけど。
泣きそうな気持ちをこらえて俯くと、ガツンっと左頬に衝撃が走った。
首に手をかけられ、殺されそうになる。
ロンの狂気に溢れた瞳を信じられない思いでみた。
あなた、私そんなことするの?
一度だけ、リチェールとバカなことをするな。公になったら私の職業が危ういと、そんな言い方でロンの行為を止めようとしたことがある。
殴られて、終わってしまったけど。
アレからリチェールはロンに抵抗しなくなった。
きっと、私に矛先が向かないように小さな体で守ってくれていたのよね。
そんなこと、今更思い出したのも自分が逃げるため。
必死に彼のもとへ逃げて、ロンから解放されたい一心でリチェールへ電話した。
リチェール、帰ってきて、もう一度私のために。
私はもう、楽になりたい。
胸が痛くて仕方ないのよ。
ずるいのなんて、百も承知だった。
私はいつも自分の痛みにばかり敏感で、リチェールが死にそうになった姿を見たって、一番に考えたのはもしリチェールがいなかったら私がこうなっていたという恐ろしさ。
それから事件が公になることに対する不安。
自分で自分がいやになる。
でもね、リチェールがどうか死なないようにと祈ったのは心からの気持ちなのよ。
優しくできないことが、苦しい。
だれか、もう、楽にしてほしかった。
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