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あの日の母と子
エリシアside
名前を呼ぶと、リチェールが驚いたような表情で振り返った。
『………なんでここにいるの?』
もう私の顔なんて見なくなかったでしょうに、リチェールが少し泣きそうな顔をしてしまった。
胸は痛んだけれど、どうしてもこの子が勇気を出してくれたように私も頑張りたかった。
『あなたに気持ちを伝えたくて』
走り回って探したせいで少し上がった息をふーっと深くついて整えた。
日本行きだから、きっともう時間はない。
言いたいことはたくさんあるのに中々言葉が出てこなかった。
最後になるのだから伝えたい言葉は山ほどある。
『その頬、どうしたの?』
リチェールが心配そうに彼に殴れて晴れた頬を見つめた。
あなたの方がよっぽどひどい怪我をおってるのに。
『彼と、別れたの。そしたら殴られたわ。どれだけ支えてやったと思ってるんだって』
『え、なんで……?大丈夫なの?』
本当は、寂しい。
大丈夫なんかじゃない。
いかないでリチェール。寂しくて仕方ないの。
そばにいて。きっと、私変わるから。
そういって、すがりたい。
『大丈夫よ。元々そんなに本気じゃなかったの。
ロンやあなたを忘れるためならなんでもよかったのよ』
冷めた声で言うと、リチェールが一瞬傷付いたように瞳を揺らす。
勘違いしないでリチェール。
あなたを忘れたかったのは、あなたが大切じゃないからじゃないの。
『……未だに、後悔してる。
ロンに犯されて泣いて私にすがった手を握らず背中を向けたことを』
あの日の光景が今も頭から離れない。
本当は手を握りたかった。
私に叱られて泣きながら寝て行った、涙の跡が残るリチェールの寝顔に謝りながらキスをする。
その時、私も少し涙が出た。
あの日以来、そんなこともできなくなってしまったけど。
『あの日あなたの手を握らなかったのは、私が弱かったから。リチェールを嫌いになったことなんて一度もない』
リチェールが、動揺したように体を震わせて服の裾をぎゅっと握る。
館内の放送がこの時間を急かすようだった。
もうこの時間は終わってしまう。
リチェール、行かないで。
お願い。
『私はあなたを守れるほど強くないけど、大切にしたかった』
今からでも、大切にしたい。
頑張りたい。
『だから、リチェール。
あなたを守ってくれたその人と、必ず幸せになって』
___そんなこと、今更私が言う資格なんてない。
私じゃあなたを傷付けるだけだから。
どうか、幸せになって。
あなたの顔を始めてみた日。
ただ一心にあなたの幸せだけを願った。
『ロンが出所したら、かならず私があの人を更正させてみせる。
ちゃんと私たち夫婦にも、愛はあったのよ。
ロンだってリチェールを、私としてじゃなく子供として愛してたの。
大切なものを大切にするのはとてもとても難しいことなの』
そして。そうする強さを私もロンも持っていなかった。
リチェールが私と同じエメラルドグリーンの瞳から大粒の涙をぼろぼろとこぼした。
その涙を拭ってあげたいけど、それをしていいのも私じゃない。
『私たちのことは忘れて、幸せになって。
あなたの母親としての最後のお願いよ』
行かないで、といいたい気持ちをここで堪えるのはあなたにできる初めての努力。
もう私は自分の痛みをあなたに押し付けたりはしないから。
『母さん……』
リチェールが小さく口を開く。
どんな言葉でも聴き逃したくなくて一歩近寄った。
『……オレだって、母さんにひどいこと言ったし……今だって、この人に、頼りきりだし………同じだよ……』
ああ、優しいリチェール。
そんなこと言わないで。
私が……私たちがあなたにしたことは、決して許させれることじゃないのよ。
『………本当は、父さんも母さんも、苦しんでるの、知ってた………っ
わかってて、オレは今、守ってくれるこの人に全部委ねて考えることすら逃げようとしてたんだよ。
だからオレだって、おんなじなんだよ、母さん……!』
泣いてるリチェールを抱き締めたくて手を伸ばそうとしてすぐに引っ込めた。
『リチェール……ごめんなさい……っ』
女である前に、私はあなたの母親。
あなたがこの世に生まれてくれただけで、私はあなたからこれ以上ない幸せをもらってたのに。
私の目からも、何年かぶりの暖かいものが頬を伝った。
館内の放送が、もうこの時間の終わりを告げていた。
ツキシロは黙って聞いていてくれてるけど、本当はもう時間なんてない。
『リチェール?私は大丈夫だから行きなさい。一目見れて、よかったわ』
『………っかあさん……』
私の大切な、リチェール。
本当は抱き締めて、引き止めたかった手でリチェールの華奢な背中を前に押した。
『さよなら、リチェール。ずっと愛してるわ』
あなたの母親になれたことを後悔したこと一度もない。
『母さん、ちゃんと元気でいてね……っ
一人の時間は寂しかったけど、働いてるお母さんかっこよくて好きだったよ。
今も、大好きだからね……!』
何度も振り替えって、小さくなっていく背中はついに人混みに紛れて見えなくなってしまった。
リチェール、幸せになって。
私は大人だから、もうリチェールに会えないことをわかってる。
リチェールも頭のいい子だからわかってるでしょう。
ロンも私ももうリチェールに会えることはない。
全部、全部、私が招いたこと。
ロンより、リチェールより仕事を優先して、取り繕えなくなった痛みから自分だけがズルく逃げて。
大切なあの子を失って、もう一生私は私を許せなくなると思ったのに。
働いてる私をかっこいいと言ってもらえて、救われた。
本当はどうしようもなく寂しい。
今すぐに追いかけて抱き締めたいけれど。
あなたの幸せのためにたえるこの胸の痛みを、少し暖かく思う。
私はあなたの幸せだけを夢見てこれから強くいきるの。
だから、リチェール。
もしも、また会えたなら今度はあなたを抱き締めさせて。
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