255 / 594

あの日の母と子

_________ 朝、予定していた時間よりも一時間早く目覚める。 横には千がいて相変わらずオレを守るように包み込んでくれていた。 今日日本に帰るんだと思うと、どうしようもなく落ち着かない気持ちになる。 あんなに早く帰りたかったのに。 なんとも言えない、焦りのような、大切なものをなくしてしまうような。 その不安から逃れたくて、ぎゅーっと千に抱きついた。 大丈夫。 二人とも頭のいい人だったから、父さんも、母さんもきっと持ち直して幸せになってくれる。 きっと、大丈夫。 そう何度も自分に言い聞かせて、千に体をくっつけた。 早く起きないかな。 名前、呼んでほしい。 寝起きのよくない千が起きるはずなんてないのはわかってるけど、ただ呼びたくて、小さく口を開いた。 「千………」 なんて、呼んでも、答えてくれるはずない。 だからその分、自分で千の右手を持って頬にくっつけた。 その瞬間、手が後頭部に回って引き寄せられた。 ぎゅっと抱き締められて、肌が触れる暖かさに心臓が早鐘を打つ。 「…………どうしたリチェール。 怖い夢でもみたのか?」 寝ぼけてと思っていたのに顔をあげると千がまだ少し眠そうに笑っていた。 「ごめん。起こしちゃったねー。まだ寝てて?」   「んー……………いや、起きる」 寂しかったの、バレたのかなぁ。 ちょっと申し訳なく思いながらも、千が起きてくれたことに安心して胸にすりよった。 優しく笑って背中を撫でてくれる。 お風呂に入ってゆっくり準備して、予定の時間にホテルを出る準備ができた。 「忘れ物はないな?」 「うん」 千もオレも急に来たからそんなに荷物は多くなくひとつにまとまったキャリーバックを千が持ってくれた。 チェックアウトを済ませてホテルを出るとイギリスの冷たい空気が肌に刺さる。 「んー。オレで寒いから、千はもっと寒いね。オレの大事なスヌード貸したげようかー?」 スヌードを少し持ち上げると千がふっと笑ってくれる。 「離れようとしてたくせにちゃっかりそれはイギリスに持ってきてたんだ?」 それ引きずるなぁ。 ごめんねー、と腕に抱き付くと少し表情が柔らかくなる。 「リチェールは人より自分心配しろよ。風邪引きやすいんだから」 「風邪引いたら千に看病してもらうからいーもん」 「無理したってことだから、治ったら犯すけどな」 ははっと適当に笑う千に昨日のことを思い出し顔がカアッと熱くなった。 「前から思ってたけど、お前照れるタイミングおかしいから」 クスクス笑って千がオレの髪をわしゃわしゃ乱した。 イギリスにいるのにこんなに感情豊かでいれるのは千のおかげ。 ホテルのスタッフに頼んでいたタクシーに荷物を乗せ空港に向かうと、17年間育った町並みが流れた。 つもった雪で白銀の世界はいつもどこか寂しげに見えていた。 それなのに、離れると思うと胸がきゅっとなるなんて。 イギリスに残りたいなんて微塵も思わないのに。 「……手、握っていい?」 「どーぞ」 手を重ねて、ここから連れ出してくれる千に身を委ねた。 母さんに素直な気持ちを伝えた。 それだけでもう十分だ。 道が混んでいて、少し余裕をもってホテルを出たのにギリギリに空港についてしまった。 まだ早く歩けないオレをベンチに置いて、千が手続きと荷物を預けに行ってくれ、バタバタ騒がしい館内を少し上の空でその風景を見ていた。 イギリスにいたのは一週間ちょっとだけど、色々あったな。 ぴりぴり痛む舌と、まだあちこちに残る傷跡。 死のうとしてたなんて、本当にオレは最悪なことをしてしまった。 自分だけが楽になろうとしたのだから。 そんなオレを千は見捨てず何度だって救い出してくれて、今オレはまた日本に帰ろうとしてる。 終わりのない地獄が続くだけたと思ってたのに。 今はそうした両親のことだって、気がかりで仕方ないなんて。 人の心は自分でだって、わからない。 最後に母さんがなにか言いたそうに顔をしかめていた。 気になるけど、母さんには支えてくれる人がいるからきっと大丈夫。 父さんが、拘置所を出たらどうなるのだろう。 頭はいいんだから、きっと仕事はいくらでも立て直せる。 だからやけくそにはならないで。 そして、いつか出たとき、まだ母さんの相手か、オレの相手を恨んで殺してやるなんて血走った目で見られたらと思うと、ゾッとするけど。 それまでにはきっとオレだって大切なものを守れるようになっていたい。 それは、父さんを守ることにだって繋がるんだ。 父さんを犯罪者になんてもうさせない。 「リチェール。行くぞ」 顔をあげると手にチケットを二枚もってで戻ってきた千がオレを立たせてくれる。 父さんも母さんも、どうか幸せになってほしい。 オレのことなんか、忘れたっていいから。 「リチェール!」 千に手を引かれ歩き出した瞬間、もう聞こえるはずのない声に呼び止められた。

ともだちにシェアしよう!